2001.01.01

伊丹−高知 を2往復してから宮崎へ DH のパターン。
西高東低の冬型の気圧配置で、太平洋側は雲のない良い天気になるかと思っていたが、
伊丹空港には日本海の雪雲が若干流れてきており、曇天で時々小雨が降っていた。
朝、早いというのにターミナルには沢山の見物客が来ていた。
恐らく初日の出を見るために集まってきたのだろうと思われたが、こんなに曇っていては太陽は見えないだろう。
寒い中、日が昇るのを待って屋外に立っている人々を見ていると、気の毒になってしまう。

401便で離陸後、揺れる中上昇し、5,000ft 付近で雲に入り、8,500ft で雲の上に出た。
その上には雲一つ無い、真っ青な空が広がっていた! 気流の乱れもピタッとおさまった。
7:41 に離陸したので、すでに太陽は地平線よりかなり昇っていたが、
それでも私にとっては21世紀最初の初日の出のように見えた。
そう思うといつも見ている当たり前の光景だが、とても新鮮に、清々しく感じられた。
21世紀は一発何をしてやろう! そう思わずにはいられなくなってしまう。

元旦でしかも初便ということで、予想通り 「Happy New Year !!」 の嵐だった。
管制官と無線で最初に通信をするとき、通常なら例えば、
「Osaka Delivery, ANK air 401, good morning.」 といった感じで話し掛けるのだが、これが
「Osaka Delivery, ANK air 401, happy new year !」 となるのだ。
すると管制官が、
「ANK air 401, Osaka Delivery, good morning. Go ahead.」 と答えてくるところが、
「ANK air 401, Osaka Delivery, happy new year. Go ahead.」 と返ってくるのである。
こんな感じで私も含めて、全てのパイロット達が 「Happy New Year !!」 を連発するのである。
そして伊丹を出発し、高知に到着するまでの40分程度の間に、管制官が
Osaka Delivery、Osaka Ground、Osaka Tower、Kansai Departure、Kansai Departure(違う周波数)
Kansai Approach、Kochi Approach、Kochi Tower、と8回変わり、その度に同じような呼びかけをするのである。
さらに周波数を切り替える前に、日本語で「今年もよろしくお願いします。」、と
最後に管制官が呼びかけてくる場合もある。
とても丁寧で嬉しくなってしまうが、当然私も「こちらこそよろしくお願いします!」、と答えてしまう。
私達パイロットもそうだが、管制官も通信する全ての飛行機に対して同じ呼びかけをしていることを思うと、滑稽である。
しかしいつまでも続けていきたい伝統だ。

朝早い出勤だったが、キャプテンは自宅の近くでカウント・ダウンの打ち上げ花火をやっていたため、
昨晩は12時半過ぎまでうるさくて寝ることができなかったそうだった。
私も元旦が休みなら、きっとカウント・ダウンを一緒に騒いでしまうだろうが、
元旦の朝早く働かなくてはならない人達もいることを忘れて、大はしゃぎしてしまってはいけないのかなァ、
と考えさせられた。



2001.01.02

福岡発新潟行き、329便。
新潟の日中の気温は 0℃ 以上で雪混じりのみぞれと雨が降り、そして次第に風が強くなる予報だった。
最悪の条件だ。
飛行機にとって、滑走路が雪に覆われているより、シャーベット状の溶けた雪(スラッシュ)に覆われている方が、
着陸時に滑りやすいのだ。
丁度、車のハイドロ・プレーニングと同じでスラッシュ・プレーニングと呼ばれている。
又、滑走路が滑りやすいときは、滑走路に対して真横から吹く風の強さが通常より制限される。
今日の新潟の天候は A320 が着陸できるギリギリの条件であり、
これより少しでも風が強くなると着陸することができない。 そんな状況だった。
(ちなみに、スラッシュが 3mm の厚さで滑走路の80%以上の面積を覆っていたので、横風は10kt まで)

このスラッシュを除雪作業し、取り除くため滑走路は CLOSE された。
我々の329便の到着の定刻は 10:50 だったが、滑走路が OPEN されるのは 10:41。
途中、大阪から新潟へ向かった飛行機のカンパニー無線が聞こえてきた。
その飛行機の定刻は 10:00。 すでに遅れていたし、天候が悪く(スラッシュと横風)、
羽田へ Divert しようとするパイロットを無線で地上から新潟のディスパッチが引きとめようとしていた。

パイロット  「10:40 まで滑走路は CLOSE なんですよね。 それまで燃料がもたないんですけど。」
ディスパッチ 「除雪作業が早まって、10:30 には OPEN する予定です。
         あと10分待ってからワントライ(一回アプローチをする)し、
         それでダメだったら羽田へ Divert、ということでどうでしょうか?
         あっ! 今、作業が終わりました!(この時点で10:20) これからアプローチお願いします。」
パイロット  「了解。 じゃあ、これからアプローチして、
         クロス(横風)が相変わらず強くて降りれなければ、そのまま羽田に行きますよ。」
ディスパッチ 「今、クロス 9kt です。 時々強いときで 12kt です。 お願いします!」

私達の横風制限も 10kt だ。 彼らが降りれれば私達にもチャンスはあるはず。
幸い、横風はそれ以上強くなることはなく、10kt 以内におさまり、大阪から来た飛行機も私達も着陸できた。

飛行機は後ろに進むことができないため、タグ車(Towing Car)と呼ばれる車に押してもらってターミナルを離れる。
新潟空港にはこのタグ車が1台しかない。(会社に1台)
大阪から来た便(ボーイング767=B6)とは通常到着が重ならないので、
タグ車を取り合うことにはならないのだが、今日は運悪く重なってしまい、
送れている便から先に出発させることになった。 当然私達は後回しになった。

B6 が Push Back を終わり、私達の飛行機に Towing Car が大急ぎで駆けつける。
さァ、Push Back しようと思った時に、丁度隣の飛行機が私達より数秒早く Push Back を管制官に要求した。
隣の飛行機が先に Push Back し、誘導路が滑りやすいため、とてもゆっくりと地上滑走していく。
滑走路に入って、離陸の許可が出てからも、
雪が降っているときの特別の手順をふまなければならないため、なかなか離陸しない。
やっと離陸して私達の番になり、離陸の許可がでても、私達もその特別の手順を実施するためなかなか離陸できない。
結局 Push Back を開始してから離陸するまで、通常より15分程度余計に時間がかかってしまった。

福岡への折り返しだったが、上空にはジェット気流があり、なかなか先に進まない。
福岡に近づくにつれ段々向かい風が強くなってくる。
13:15 が定刻だったが、行きの遅れを取り戻すことができず、13:40 に Ramp-in した。
私達のスケジュールでは、この後 14:10 発の宮崎行きの JAS に便乗することになっていた。
13:15 に着けば 50分の余裕があるのだが、
13:40 に到着したために乗客が全員降機し、私達が飛行機を降りることができたのは 13:45 過ぎ。
キャプテンの分の航空券も持って JAS の出発カウンターまで走った。
なんとか JAS 便の出発20分前の 13:50 までにチェックインすることができた。
これを逃すと次の 16:45 発の便まで待つ羽目になる。
乗ることができて良かった。



2001.01.03

訓練生のOJT(On the Job Training)に付き合う Safety Co-pilot 業務。
通常はキャプテンと副操縦士(COP)の2名編成だが、今日は3名編成。
A320 の飛行機の免許を取得後、そのままでは COP として旅客機のコックピットに座ることはできない。
会社が認める COP になるために、実際にエアラインの路線を飛び OJT の訓練を受ける。
この時、正規の COP がジャンプシートと呼ばれるコックピットの中に備えられている予備の座席に座り、
訓練の見習い COP が過ちを犯さないように、手順が抜けないように見張る役が Safety Co-Pilot である。

私はオーストラリアで訓練を受けた自社養成パイロット。
オーストラリアは天気がいつもいいし、また管制用語が日本と全く違う。
そして日本の空を始めて飛んだのが YS-11 の訓練で熊本空港で飛んだとき。
この時は教官が ATC とカンパニーの無線業務をやってくれた。
副操縦士の業務の中で無線業務がかなりの部分を占める。
私が日本の空で初めて無線を使ったのは、熊本での訓練後、札幌へ転勤になり、OJT 中だった。
冬で吹雪き、天気が悪いときが多く何度も Divert したし、管制官が何を言っているのか分からないし、
とても苦労したことを覚えている。

今日の OJT の訓練生は航空大学校卒で、基礎訓練は日本で行ってきている。
無線に慣れているせいか、ATC もカンパニーもほぼ完璧にこなす。
その負担がない分、他の業務もしっかりやっている。
同じ時期の私自身と比べると、実力の差は歴然としている。
ほとんど指摘する事項もない。 とても自分が恥ずかしく思えた。



2001.01.07

九州から低気圧が接近する中、朝早く関空を離陸し松山へ飛んだ。
松山に着陸時、天気はまずまず。
松山を後にし、千歳へ向かった。
FL370 まで上昇すると雲の上。 青空が広がり気流も良好!
千歳はとても天気が良く、函館のあたりから苫小牧が見えていた。
もう少し視力が好ければきっと千歳空港も見えていただろう。(私の視力は1.5)
千歳−中標津の往復も良好。
そんな中、女満別はガンガン雪が降り除雪作業に追われている模様。
すぐ近くなのに大きな違いだ。
上空でカンパニーを聞いていると、どうやら西は鹿児島の天気が悪いようだ。
ほんとうに最近、私は天候に恵まれている。
そのうちとてつもなく悪いことが起こるのではないか心配だ。
そういえば、E-mail でおみくじの年賀状をもらったが、
大凶 → 凶 → 大凶 → 凶 → 小吉 だった。



2001.01.08

昨夜は雪が積もる予報だったが、幸い雪がみぞれに朝方変わり、羽田の出発便に影響はなかった。
長期休暇の最終日ということもあり、羽田発はガラガラで羽田着が満席、という便が多かった。
今日の勤務は 羽田→中標津(11名)、中標津→羽田(満席=166名)、
羽田→大館能代(84名)、大館能代→羽田(満席)。

中標津へ向かう途中、仙台のカンパニーが聞こえた。
関西発仙台行きの291便を呼び出している。
9時までに除雪作業は終わったものの大雪が続き、除雪したそばからどんどん積もるので、
とても滑りやすく、滑走路の滑りやすさの度合いは Very Poor で離着陸禁止。
なんのために雪かきしたのか? とても着陸できる状態ではない。
仙台空港は仕方なく除雪作業を休む間もなく再開することを決定。
9時から11時まで2時間も除雪作業を継続することとなった。
つまり11:00まで滑走路は閉鎖される。

カンパニーで291便に上空で11:00まで待機できるだけの燃料が搭載されているのか聞いていた。
もちろんそんなに積んでいるわけがない。
仮に待てたとして、除雪作業が終わってまた Very Poor だったら、何のために2時間も待ったのか?
仮に一段階滑りやすさが改善され Poor になったとしても、その横風制限は 10kt で
地上の風はそれを上回っている。 つまり風が弱まらなければ着陸してはいけないのである。

関西空港を出て仙台へ向かった291便は、新潟を経由して飛行するのだが、
新潟の上空で羽田への Divert を決定した。
この291便の Cockpit Crew は私が A320 の訓練を一緒に受けたキャプテン2名による
ダブル・キャプテンでの運航だった。
とても聞きなれた2人の声が Divert のためカンパニーと ATC とせわしなく無線で交信していた。

私達はというと気流の良い FL370 を飛行し、快晴の中標津へ到着した。
滑走路も全く雪に覆われておらず、舗装面が露出していた。
途中北風の影響で中標津へアプローチ中揺れたが、
Holding したり、Divert したりすることを考えればどうってことなかった。

着陸後、CA の話によると離陸直後と着陸後、客室後方で Oil のような臭いがした、
とのレポートを受けたが、原因は分からなかった。

折返し、中標津を離陸。
途中、福島を離陸した千歳行きの便のカンパニーが聞こえた。
「1時間45分遅れで就航してます。 Spot を Open じゃなくて PBB にしてもらえませんか?」
Open Spot とは、ターミナルから離れていて、バスで飛行機まで案内するタイプの駐機場。
PBB(=Passenger Boarding Bridge)とは飛行機に
ターミナルから直接歩いて移動できる橋のようなものをくっつけることができる駐機場。
Open Spot はバスを利用するため飛行機の乗り降りに PBB より時間がかかるのだ。
当初 Open Spot 20 番だったようだったが、地上スタッフの配慮で PBB の Spot 3 番に変更になった。

今日は低気圧の影響で仙台や福島近辺の太平洋側が大雪に見舞われ、便が乱れたようだった。

羽田に到着後、また Oil 臭が客室内後方にあったと CA から報告を受けた。
整備さんによると、羽田を今朝出発した石見行きの飛行機でも同じような臭いがあった報告を受けたと言う。
それは Oil 臭ではなく 「グリコール」 の臭いではないか、との整備さんの見解。
羽田に駐機していた飛行機には朝方雪が積もっていたので、
それを除去するグリコールと呼ばれる防除氷液を機体にかけたのだ。

機体に雪が積もった状態で離着陸することは禁止されており、グリコールをかけて雪を取り除くのだが、
頻繁に行う雪国では、この作業に慣れているため、
グリコールがエアコン・ダクトに入らないように防除氷液を散布できるのだが、
滅多に雪の降らない羽田のような空港ではグリコールのかけ方に不慣れで、エアコン・ダクトに液が入ってしまい、
それが蒸発して Oil のような臭いを出すのだそうだ。
なるほど、納得である。



2001.01.09

575便に乗務するため、Gate 21 番へ向かった。
21番ゲートの前のベンチに、男性が小さな女の子を膝の上に乗せて座っていた。
女の子はとても悲しそうな顔をして、父親らしき人に抱きついていた。
ちょと気になったが、出発の準備をするため、そのまま飛行機に乗りこんだ。

その女の子は1人で最後に乗ってきた。
飛行機のドアが閉まると、私達のすぐ後ろで泣き叫ぶ声が聞こえた。
乗客が全員搭乗すると、CA がそれを報告にコックピットに入ってくる。
彼女によると、その女の子はドアが閉まると、ドアにしがみついて離れようとしなかったのだそうだ。
父親は羽田に残り、女の子の1人旅だったのだ。(「ジュニア・パイロット」と呼ばれている。)
しばらくの間、コックピットのドアの後ろから、泣き声が聞こえていた。

羽田を離陸し、上昇中、私は女の子のことを考えていた。
水平飛行に移り時間に余裕ができたら、トイレに行くついでに客室へ行き、
女の子に話し掛けて、オヤジ・ギャグの1つでも言って笑わせられないか?
何とか女の子が笑顔を取り戻してくれるように、何かをしなきゃ・・・・
単に飛行機が嫌い、とかいうことではなく、きっと何か深い理由があるのではないか?

CA が飲み物を上空でコックピットに持ってきてくれたとき、女の子の様子を聞いた。
彼女はすっかり元気になり、
後ろのギャレー(CA が飲み物を用意するスペース)で遊んでいる、とのことだった。
良かった。

その9才の女の子はどうやら母親がいないらしく、父親は単身赴任で東京に出てきており、
田舎の石見で一緒に暮らすおばあちゃんのもとに帰るため、575便に1人で乗ってきたのだった。

石見に着陸して、飛行機から降りていく乗客の中から女の子を探した。
一番最後に降りた彼女は、笑顔で嬉しそうに GH と手をつないで帰っていった。

何かの都合で父親は単身で東京で働いているのだろうか?
女の子はお父さんと一緒に楽しい正月休みを過ごすことができたのだろうか?
きっと楽しかったからお父さんと別れるのが辛かったのだろう。
きっと父親も寂しかったのではないか?

そう思うと、とても悲しくなった。



2001.01.12

401便 → 404便 → 405便 → 406便 の勤務。(使用機材は JA8400 という番号の機体)
昨日はまた千歳の天候が悪く、荒れた模様。
千歳から高知へ向かう便がキャンセルになり、
その後、その飛行機を使って飛ぶ 高知−伊丹 の最終便までがキャンセルになってしまった。
通常のパターンでは千歳から高知へ向かう飛行機を、次の日の朝一番の便に使用するため、高知に一晩置いておく。
そして昨晩はこの飛行機が高知空港になかったため、高知発伊丹行き朝一の便、402便 もキャンセルになってしまった。
今日、私と一緒に飛ぶはずだったキャプテンは東京に行ってしまい、
代わりにスタンバイ稼動したキャプテンと一緒になった。

401便で高知に到着しディスパッチへ行くと、404便で折り返し伊丹に戻ったら
Ship Change で別の飛行機(JA8390)に乗り換えて405便で伊丹から高知に飛び、
その後、もとの JA8400 に乗って高知から伊丹に戻ってくれとのこと。
?????? なんかおかしいぞ?
404便で JA8400 の機体を伊丹に乗り捨て、伊丹から JA8390 で私達が高知に行き、
伊丹にあるはずの JA8400 に乗って高知から伊丹に帰る?
誰が JA8400 を高知も持ってくるわけ?

みんなで話し合っているうちに、ようやく意味が分かった。
私達は JA8400 の機体を使い
401便 → 404便 → 403便 → 406便 を飛び、
別の乗員がフェリー(空)で JA8390 を千歳から伊丹へ飛行機を運んだ後、
405便 → 702便 を飛ぶ、ということだった。(702便 = 高知→関空)

飛行機を飛ばすとき、必ず飛行計画(フライトプラン)と呼ばれる書類を管制機関に提出する。
記載事項の中には、便名、機体の番号(JA8400 等)、キャプテンの名前、乗客の人数などがある。
私達が提出したフライとプランには JA8400 という機体を使って405便を飛ばすことになっており、
これでは403便(JA8400)は飛べない。
すぐに羽田の運航管理を統括している部署に電話し、新しい403便のフライトプランを送ってもらう。
403便(JA8400)を送ってもらおうとお願いしたのだが、
羽田も混乱しているようで、405便(JA8400 用)のものを送ってくる。
また電話したが、今度は 405便(JA8390 用)のものが送られてきてしまった。
3度目にしてやっと 403便(JA8400 用)のフライトプランが送られてきた。

404便で定刻の 09:20 に伊丹へ到着。
405便は定刻が 09:55 発。
403便は定刻が 08:55 発。
403便はディレイセット(遅らせて就航)されており、09:45 までに出発してくれと言わた。
千歳から到着した JA8390 の飛行機は5分ディレイセットされており、10:00 発予定。
それを聞き、私達は少しでも早く出発したかった。
本来なら 403 と 405 では1時間の間隔があるのに、ディレイセットされた出発時刻では、その差たったの15分。
清掃さん達も頑張ってくれたおかげで、09:40 には出発できそうだった・・・・・

だが、405便に乗る予定だった乗客の身になって考えると、
403便が遅れていて、その便に空席があり、405便をやめて403便に変更してもらえば、
高知の到着は10分程度早まるわけだ。

案の定、405便に乗る予定だった乗客が、少しずつ 403便に流れてきた。
403 と 405 の駐機場は離れており、歩いて数分はかかる。
403便に乗るために何人かずつがゲートを通って乗り込んでくる。
もう乗り終わったかな?と思うと、また何人かがゲートを通過してくる。
これじゃ、いつまでたっても出発できないじゃん!!

結局、09:40 には出れると思ったが、405便の本来の定刻の 09:55 に出発した。
私達は「早く行きたいなァ」と思いつつ、15分もコックピットでボーッとしていたのだった。

さて、1時間遅れで403便は就航。 とにかく急がなくちゃ、と思うも
丁度この15分の間に出発機が重なり、私達の離陸は6番目。
Push Back すらさせてくれない!
あーーーー、09:40 に出れてれば、すんなり離陸できたのにーーーー!!
このままだと 405便と同時出発になってしまうぞ・・・・・
しかし、405便の声が聞こえてこない。
10:00 に出発していれば無線で何かが聞こえるはずなのに・・・・・
だが、他人のことを考えている余裕はない。 早く高知に着かないと!

高知に向かう途中、カンパニーに呼び出された。
「次は 702便の乗務になります。」
えっ! なんで? ま、とりあえず、そのことは後回し。
今は高知へのアプローチに集中しなきゃ。

高知空港へ向けて高度を降ろしていく。
計器上の TCAS が、私達の目の前10kmほどのところ、四国山脈の影に飛行機がいることを示している。
その機影はほとんど動かない。
「ヘリコプターでしょうかね? 随分低い高度で飛んでますね? あんなところに居たら、山にぶつかりそうですね?」
そんなことをキャプテンと話しつつ、飛行場が見えたので、
最短コースで降りれるビジュアル。アプローチを管制官に要求。
「Stanby. Unknown traffic ahead of you. Fast moving. Maintain 7000ft.」
(スタンバイ。 なんだか分からない飛行機が、早い速度であなたの飛行機の前を移動中。
 高度 7000ft を維持してください。)
ふと見ると、さっき計器上で止まっているように見えた機影が、
ものすごいスピードで私達の目の前から右の方向へ動いていく。
計器上の TCAS では見えてるのだが、目視で確認できない。
そのスピードは、停止していたヘリコプターが加速して出せるような速度ではない。
これはなんだ!?
以前、異様な機影を見たことを、このダイアリーに書いたが、あの時は管制官のレーダーには映っていなかったが、
今回は高知のレーダーに映っていたのだった。
結局、それがなんだったのかは分からなかったが、その Unknown Traffic にぶつからないように避けるため、
遠まわしで飛行場へ誘導されたため、到着が予定より遅れてしまった。

高知のデェスパッチへ行くと、405便がメンテ(どこかに不具合があり、飛行を見合わせている)で、
高知への到着がいつになるか分からない、とのこと。
だから 405便のクルーが飛ぶはずだった 702便を飛んでくれ、と頼まれた。
405便に当初乗る予定で、403便に代えた乗客は、なんとラッキーなこと。

この 702便、関空発の国際便に乗るために海外旅行客を沢山乗せる。
いつもなら、関空発の便との接続に時間に余裕が充分にあり、702便が関空に少々遅れても問題ない。
だが、今日に限って、イタリアのミラノ行きの便で、接続に時間の余裕がほとんどない乗客が1名いた。
しかし、もし、702便が遅れて乗る予定だった国際便に乗れなくても
他社が後の時間帯に飛んでいることがほとんどなので、そちらの便に振り返ることができる。
ところが、このミラノ行き、一日に1便しか飛んでいない、という。
これを逃すとこの乗客は海外旅行に行けないのだ!!

ディスパッチァーがフライトプランを羽田から取り寄せ、飛行機まで持ってきてくれた。
通常はしないのだが、本来預ける大きなスーツケースを機内に持ち込み、
空いている座席にシートベルトを使って固定。
清掃さんもがんばってくれて、定刻 10:05 発の 702便は、1時間遅れの 11:05 に出発した。
GHさんに 11:45 までに到着すれば、12:25発のミラノ行きになんとか間に合う、と言われ、
尻をたたかれた馬のようにガンガン飛ばして関空に 11:37 に到着した!

今日は朝から色々なことがあったが、これだけではなかった。
401便に乗った CA の一人が気分がすぐれず、電話して関空からスタンバイの CA を1名呼び寄せ、
403便、702便に乗務してもらっていた。
403便で高知に到着後は、702便に乗って伊丹ではなく関空に到着するため、
パイロット、CA、ともに今後のスケジュールが変更される可能性があるから、
飛行機の外に出て、携帯電話を使い担当事務所にみんなで電話した。
私は携帯電話を持っていないから、手持ち無沙汰でキャプテンに全てやってもらってしまった。
(こういうことは本来、副操縦士の業務)

今日一番ラッキーだったのは、スタンバイ稼動した関空から来た CA だろうか?
彼女はもし伊丹で仕事が終わっていれば、伊丹から関空まで地上移動しなければならなかった。
朝早くたたき起こされ、関空から伊丹へ 403便に乗務するため来たときは少し不機嫌そうだったが、
関空で終わった彼女は、一人だけ嬉しそうだった。
残りの3名の CA は、本来なら伊丹で仕事を終え、東京まで便乗で移動する予定だったが、
関空から伊丹へ地上で移動し、その後東京まで便乗することになったのだった。

私達は、というと関空から伊丹空港まで地上移動。
キャプテンは伊丹空港から自宅へ帰り、私は予定通り宮崎へDH(便乗)で向かうこととなった。
さて、審査の近づいている私は、というと、会社の規程の勉強をするため、
その規程の書かれているマニュアルをフライトバックから取り出し、便乗の機内でそれを読むはずだった。
他の荷物(フライトバッグとステイバッグ)はカウンターで預けた。

飛行機が離陸するまで新聞を読んでいたが、そろそろ勉強するか、と規程のマニュアルを探したが手元にない。
あれ、どこだ・・・・・・?
しまったァー! 11番ゲートのベンチに置いてきてしまったァー!!
恐らく私達パイロットが持っている規程類の中で、最も大切なものを置き忘れてしまったのだ!
マズイ! あれを無くしたら始末書ではすまないぞ!
私が社長だったら、そんなふとどきな奴、解雇してるかもしれない。
イヤ、怒られたり、解雇されるだけならいい。
もし、誰かがそれを持って帰って、何年かして別の人の手に渡り、
それを悪用して、機内で事件が起こったり、最悪事故ったりして
乗客の身になにかあったら、私はどう謝ればいいのか? 謝ったところで、どう責任を取ったらいいのか?
しかも、それは何十年後のいつ起こるかもしれないのだ。
捨てられるかもしれないが、もしかすると30年後にそれを悪用されて何かが起こるかもしれない。
それが誰にも分からない以上、私は一生ドキドキ、ビクビクしながら生きなければならないのか?

人の善意を信じるが、こんな時、私はとてつもなく不安になり、悪いほう悪いほうに考えてしまう。

そうだ! 機内には公衆電話があるはずだ! あった、あった。
テレホンカードの残り度数が 60 もあれば、なんとか状況を説明して11番ゲート付近を探してもらえるだろう。
「もしもしー! もしもしー!」
度数は 8単位位ずつ飛ぶように減っていくが、電話が遠くて相手に全く聞こえていないようだった。
一度切り、また電話したがダメ。 そしてテレホンカードの度数は 0 になってしまった。
CA に事情を話してテレホンカードを売ってもらおうと思ったが、サイフには1万円が札1枚しかない!
彼女は困ったときはお互いさま、とカードを私にくれたのだった。
さらに親切なことに、遺失物問い合わせの専門の電話番号を教えてくれた。
だが、再び電話が遠くて相手には聞こえないようだった。
空席の多い便だったので、遠くにいる人を呼ぶように、とてつもなく大きい声で叫ぶように電話で話したがダメだった。
恥ずかしかったが必死だった。

その CA が気の毒そうに私に近づいて来た。
キャプテンに事情を説明したら、大切な会社の書類がなくなっては大変だと、
無線を使ってカンパニーで伊丹に連絡し、地上係員に探してもらえるよう、頼んでくれるとのこと。
もし便乗が自社便(エアーニッポン便)だったら、恐らく躊躇せずそうしてくれるようにキャプテンに頼んでいただろう。
でも、この宮崎行きは他社便だったので、そんなことをとても私の口からお願いすることができなかった。

宮崎に到着するまでの間、マニュアルの行方は分からず、
心臓が異様なまでにドキドキしながら不安で落ち着かなかった。

宮崎に着陸後、Spot-in し、シートベルトサインが消えると同時にコックピットから CA を呼び出すチャイムが聞こえた。
先ほどの CA が笑顔で私の顔を見て、Thumb Up の OK サインを出した。
見つかったのだ!
GH が11番ゲートのベンチの上に置き忘れてあった私のマニュアルを見つけて ANK事務所に届けてくれていたのだった。
CA にお礼を言い、また
コックピットに座るキャプテンと副操縦士に腰が90度に曲がるほど深々と頭を下げお礼を言い、感謝した。
みなさん、どうもありがとうございました!!

ところで、カンパニー無線の周波数、エアーニッポンと同じものが使われている。
アンクさん(エアーニッポンの略)の○○さんが、
 11番ゲート付近に△△の社内規程のマニュアルを置き忘れたそうです。
 もし見つかったら伊丹のアンクさんの事務所に届けておいてください。

どのような無線による交信が行われたのか、私が知る由も無いが、
全国ネットでうちの会社も含む沢山の飛行中の乗員と、地上のスタッフに聞かれてしまったのだろう・・・・・
あぁ、穴があったら入りたい!



2001.01.13

昨日はホテルにチェック・インしてから走りにいった。

すでに5時半頃で太陽が丁度沈んだばかりで、西の空がまだ明るかった。
土手から階段で河川敷に降りて、いつものコースを走り出した。
右手の土手の壁に沿って、ダンボールを寄せ集めたように捨ててあった。
そこにはカサやら自転車の車輪やらが置いてある。
前ここを通ったとき、ここにこんなものあったっけ?

よく見ると細長く置かれたダンボールのてっぺんから、ハードブックの背表紙が見えている。
人がその中に寝そべり、沈みそうな太陽の光で難しそうな分厚い本を読んでいるのだ。
私はとても驚いた。

昨夜は寒波で外はとても寒かったに違いない。
次に宮崎に来たとき、そのダンボールがなくなっていることを、
その人がどこか暖かいところを見つけていることを私は心の底から願う。

朝早く宮崎を離陸し福岡へ向かっている途中、キャプテンがぼそっと言った。
今日、新潟降りれないかもなァ・・・・」 
寒気が日本海側に雪を降らせ、風が強くなる予報だった。
しかし、福岡のディスパッチへ行って新潟の最新の天候をチェックしてみると
雪雲の塊が新潟空港の南をかすめるように西から東へ流れており、新潟空港の天気はまずまず。

上空は 170kt の真後ろからの追い風を受け、音速に匹敵するスピードで新潟へ向かい、
比較的天気の良い新潟空港へ問題なく着陸した。
しかしその後、離陸までの間に除々に降雪が強まり、
風も滑走路に対して向かい風だったものが横風に変化しだした。

福岡への折り返しはジェット気流をまともに向かい風で受け、到着は定刻より15分も遅れてしまった。

ディスパッチへ行き、福岡空港へのアプローチ中の揺れの報告をした。
ちなみに、と、新潟の天気の移り変わりをコンピューター画面上に打ち出してみた。
すると吹雪で視程が落ち、着陸も離陸もできないような天候になってしまっていた!(Visibility 300m)
いやー、良かったー!
もう少し到着が遅かったら、着陸できずに羽田に Divert してたかもしれなかったのだった。



2001.01.16

高知では今朝−6℃まで気温が下がったらしい。
大阪も日中とても寒かったが、ほとんど継続して大雪だった小松空港や、
その他の日本海側に比べればずっとましだ。
大阪−高知を2往復半するだけだった私はラッキーだった。

伊丹のディスパッチで、現在は全日空に戻られた元室長に会った。
聞くと21日の 佐賀−伊丹 がラスト・フライトになるのだそうだ。
そっかー・・・・ 寂しくなるなァ・・・・・
とてつもなくおっかない顔をしているし、怒ると果てしなく怖いけど、目がとっても優しい。
どことなくオチャメな人。
いつか私も定年を迎えるのだろうが、その時どんな気持ちなんだろう?

10,000ft 〜4,000ft 付近には雪雲のような雲があり、上昇、降下中ともに大きく揺れたが、
雲の下の空気は透き通ったように済んでおり、夜景がとても美しかった。



2001.01.19

まもなく審査、ということで、2連休だったが遊びに行くことはできなかった。
いつもならマクドナルドに行くのだが、今回は雰囲気を変えて喫茶店へ。
とても静かな住宅街にあり、コーヒーが安く、なかなかおいしい。

外に面したカウンター・テーブルに座り、暗記開始。
昨日はガラガラだったが、今日はほとんど満席だった。
全員女性の客で、みんなケーキ・バイキングを食べている。
私も食べたくなり、ケーキを見に行った。
ショーウィンドーに置いてあるバイキング用のケーキ達。
私が食べようと思ったら、きっとそこにある全てを食べ尽くすことができるだろうなァ。
お店の人が可哀想だし、カロリー高そうだし、やめるか・・・・・
ケーキを諦め勉強に戻った。

私は場所を変えると何故か勉強が進む。
それも図書館のような静かな場所より、人が多くて騒がしい所の方が集中できるのだ。
これからしばらくの間は、椅子とテーブルのある騒がしい場所を求めて、転々と移動することだろう。



2001.01.20

松山から千歳へ向かう途中、2000.12.06 に起こったのと同じ現象があった。
TCAS の画面上に2機の機影が並んで現れた。
私が黙っているとキャプテンがしばらくして、
おいおい、こんなところで編隊飛行してるやつらがいるぞ。
そこは関空から数マイルも離れていない所だ。
「実はですね、この前も全く同じことがあったんですよ。
 この2つの飛行機らしきもの、きっと私達の右側によけてからもとの場所に戻りますよ。」
私の予言通り、関空の上空近辺にいた2機の機影はしばらく私達の進路上にいたが、
接近するに従って右側5マイルほどに移動し、私達が通過すると元の場所に戻るように
左側へ移動していき、そして画面上から消えていった。
恐らく関空の近くに何かがあるのだろう。
それが誤って TCAS 上に映し出されてしまっているに違いない。
それにしても同じものを見るとは思わなかった・・・・・
なんだこりゃ、UFO か? おまえ、UFO、UFOって騒ぐなよ。バカにされるぞ。

とても天候は良く、千歳も中標津も滑走路は DRY(全く雪が積もっていない状態)。
中標津へのアプローチはめずらしく気流は良好だった。

朝調べた空港の天気予報によると、羽田は夕方からみぞれ。
そんな馬鹿な・・・・
千歳から羽田へDH(便乗)で向かった。
眠かった私は着陸間際まで爆睡していたが、フと目が覚めて
前方の機外を映し出している映像を見ると、雪が降っている!
実家への帰り道も除々に雪が積もり始めていた。
家に着くと会社から電話が入った。
今晩は雪が積もりそうなので、いつもより30分ほど早く家を出て出社してくれとのこと。
もう・・・ただでさえ5時起きなのに、さらに30分早く起きなくちゃいけないわけ?!
ま、仕方ないか。 天気のせいだもんな。

しかし、この前東京ステイだったときも雪の影響で家を30分早く出るように指示を出されたよな?
そろそろ晴れ男の私の運も尽きたのだろうか?



2001.01.21

羽田は昨晩の雪で3本ある滑走路のうち2本が07:40頃まで除雪作業のため閉鎖されていた。
出発機、到着機が待たされたため混むかと思ったが通常と同じ程度だった。
とはいっても出発の順番が8番目で、Push Back から離陸まで25分もかかってしまった。(早いときは15分以内)

帯広より東の北海道は雪雲もなく、天気は良好。
目的地の中標津は−15℃だったが晴天。
ディスパッチを出て飛行機へ向かうころ海上の低気圧からの暖かい湿った南風が入ったせいか、
気温が−8℃まで急に上がりもやってきて、それまで10km以上あった視程が2kmまで落ちた。
ディスパッチの見解では、まもなく気圧の谷が抜け、西風に変わり湿った空気がなくなって
もやはとれるはず、とのことだった。
(冷えた大地に湿った暖かい空気が流れ込むと、地面に近い所にもやができ、
それが発達して霧が発生する。これは冷たいガラスに息を吹きかけると
息に含まれる水蒸気が細かい水の結晶となってガラスを白く曇らし、指で字が書けるのと同じ原理)
羽田を上がるとまもなくカンパニーが入った。
今、視程200mです。」 ・・・・降りれないじゃん・・・・
「了解、行って来ます!」 とだけ言って無線を切った。
私達にブリーフィングしてくれたディスパッチャーはとても天気に詳しい人。
彼が大丈夫だって言ったんだから間違いないでしょ。
それに私は晴れ男。

中標津に近づくにつれ風が南から西に変わり、除々に天候は回復してきた。
そして飛行場から高さ800m、距離15kmの地点で滑走路が見えた。
地面に張りつくように低い雲が大地を覆っていたが、
何故か滑走路のところだけポッカリ穴が開くように雲に隙間があり、
滑走路が遠くからでも見えたのだ。

中標津から羽田へ戻り、次は大館能代。
ディスパッチへ行くと「今、少しエコーがかぶってますけど、雪雲はまもなく抜け
天気は回復しそうです。」とのこと。
(エコー = 気象レーダーに映った雲のうち、雪や雨を沢山降らす部分で、
      そこの色の変化で雪雲の強弱が分かる。突風を伴う場合がある。)
飛行計画では、大館能代で1時間待機してから羽田まで戻れるほど燃料を積む予定。
それだけあれば十分だ。

羽田を離陸ししばらくするとカンパニーに呼び出された。
大館能代の西の海上に雪雲が湧き、
それが空港周辺に流れ込んできて、急激に視程が落ち Landing Below となった。
着陸できる最低気象条件を下回ってしまったのだ。
今度はヤバイかもなァ・・・・・
とりあえず大館能代の上空まで飛行し、
10,000ft まで降下して揺れる雪雲に入らないように待機することにした。

大館能代のディスパッチャーは刻一刻と変化する気象の状況をカンパニーで送ってきてくれた。
今、視程800mです。」 全然ダメだな。
今、視程1000mです。」 ちょっとはましだけど、まだまだ。
今、2000mです。」 もう少しか。
Base 700ftです。」 やっぱりまだダメか。(Base = 雲の底の部分の高度)
今、視程3000m、Base 1000ftです。」 お、行けそうか?
キャプテンの顔をチラッと見る。 ワントライするようだ。(=1回アプローチを試みる)
すかさず飛行場へアプローチするための管制承認を管制官にもらった。
そしてアプローチ開始。
空港に向かって除々に高度を下げて行くとカンパニーが視程がまた落ちてきたと言っている。

雪雲が断続的に飛行場に流れてくる場合、飛行場の天気が良くなってからアプローチを開始すると
滑走路に到着するまでに5〜10分かかるため、次の雪雲が飛行場に流れ込み
天気が再び悪くなり降りれないことが多々ある。
そんなときは雪雲の流れるスピードと通過にかかる時間、
天候が回復してから悪化するまでのサイクルを読みつつカンパニーはアドバイスしてくれる場合もある。
今日はどちらかというと、今丁度天候が良くなったから、今すぐアプローチしてくれ、
と言われた感じだったので、次の雪雲の飛行場通過とピッタリ重なってアプローチしてしまった感もあったのだった。
だが、一度アプローチを開始してから、ここまできて止めるわけにもいかない。

飛行場に対して西から東へ空港に接近していく。
滑走路の手前13kmのあたりで雲の外に出た。 滑走路がかすかに見える。
だが、丁度滑走路の西の端から反対側(東側)にかけて雪雲が飛行場全体を覆っている。
雪のベールを被っているように滑走路とその向こう側が見えないのだ。
そして西風が強いのでまっすぐ滑走路に向けて降りることはできず、
滑走路に対して右に斜めに飛行し、滑走路を左下に眺めながら
滑走路の反対側まで行き、そして反対側(東側)から滑走路に降りなくてはいけない。
その途中、雪のせいで滑走路を見失ったら着陸してはいけないのだ。
つまりゴーアラウンドせざるをえない。

これは無理かもなァ・・・・と思いつつもアプローチは続く。
上空の西風は強く、かなり速いスピードで雪雲が東に流れていき、少しずつ滑走路の西の端のもやがとれてきた。
おっしゃー! 行けそうだぞ! と、同時に西風が強いため気流がとても悪い!
暴れる飛行機をキャプテンは押さえ込みながら、できるだけ小回りに滑走路の右側を通過し
反対側へ回り込み、滑走路を見失うことなく一発で着陸したのだった。

いやー、危なかった!
もう少しタイミングがズレていたらゴーアラウンドしていただろう。
結局定刻より10分遅れでの到着だったが、一発で着陸できたのは嬉しかった。
もしゴーアラウンドしていれば30分程度、すぐ遅れてしまうのだ。

帰りの羽田行きは向かい風が比較的弱かったので10分遅れを5分遅れまで縮めることができた。
なかなかメリハリのある爽やか、かつ充実感のある一日だった。



2001.01.22

石見行きの初便、575便。
ディスパッチャーは FL390 で飛行計画を作っていたが、上空には強いジェット気流があり、
向かい風が強すぎて定刻に到着できそうになかった。
天気図を見てみると FL260 も揺れそうにない。
しかも到着は FL390 で飛行した場合より5分早まる。
向かい風は FL390 で 140kt、FL260 で 90kt であり、50kt(時速90km)の違いがあったためだ。
だが、高度が低いため燃料を 900ポンド余計に使うことになる。
エアラインにとっては定時性も大切だ。
ま、仕方ないか・・・・ 揺れなければいいだろう。

26,000ft に到着したが、気流は完全にスムースにはならなかった。
もうちょっと西に行けば安定するはず。
そう考えていたが、段々雲が濃くなり揺れが少しずつ強まっていった。
おかしいなァ。
もうちょっと行けば良くなるだろうから我慢するか。
だが、待ってもいっこうに揺れがおさまらなかった。

早い時点で高度を変えることを決めていれば FL390 まで上昇することができたのだ。
だが、かなり西に行ってから FL260 がダメなことに気付いたため、
仮に 26,000ft から 39,000ft まで上がっても上昇中、降下中揺れることと、
巡航の水平飛行をほとんどとれないことを考えると、
FL260 で揺れを我慢した方がまし、という結果になってしまった。

私達はディスパッチで天気図を記憶し、自分達が飛ぶ時どのような天気になっているかを予測しながら飛行する。
実際の天気と自分の予測したものとが食い違うことはよくあるのだが、どうして違うのか原因が分からないと
高度を上げればいいのか下げればいいのか分からなくなってしまう。
そんなとき、他機のレポートを信じて高度を変更して状況が改善することもあれば、悪化することもある。
だから安易にレポートを信じるわけにもいかないのだ。
そして自分が記憶した天気図をもとに解析、分析した結果をかたくなに信じてしまい、失敗することもある。
今日はまさにそのケースだったかもしれない。

乗客は29名(満席で166名)しか乗っておらず、FL260 を飛んだために余計に使った 900ポンドの燃料は
揺れる空域を回避できなかったことを考えると、無駄にしてしまったような気がする。
だが、それは結果論。
飛行中はベストを尽くすために必死に考えているのだから、後悔しても仕方ないか?
今日の出来事が次に同じような事象があった場合の肥やしにでもなれば良しとしよう。


575便の後一旦羽田に戻り、2回目に577便で石見に向かったときは、すでに状況が変わっていた。
西から近づいている低気圧の移動速度は速いようで、どんどん雲が厚くなってきていた。
さらに577便で石見に到着後、30分してから180便で伊丹空港に向けて離陸した際、
雲はさらに厚くなり、水平飛行に移ってからも揺れが続いたため
シートベルト着用のサインを消すことはできなかった。
きっとお客さんはずっと座っていて退屈したことだろう・・・・



2001.01.27

今日の審査の為に、昨日便乗で東京に移動していた。
これから大雪が降るとも知らずに・・・

昨晩の予報では夜半に雪が降り出し、朝10時頃に雨に変わるはずだった。
私は朝4時きっかりにパッチリと目を覚ました。
「今日は審査か・・・ 勉強しようかな?(口頭試問がある)
イヤ、やっぱり新聞を買いに行こう。」
4:40まで布団でぬくぬくしていたが、起きてコンビニへ向かった。
外はパラパラ雪が舞っている程度。

「これなら大丈夫だろう。それにしても、このところ東京ステイの時にいつも朝雪が降っているよなァ。
 しかも3回連続で・・・ 雪国では晴れ男なのに、東京に限っていつもそうだ。
 そう言えば3年前の東京発のチェックの時は大雪で便がキャンセルになり、審査が流れたっけ・・・
 5年前のYSの副操縦士昇格審査の時は中標津ー丘珠の帰り、丘珠が大雪で Go Around して
 上空で Hold してから千歳に Divert 。
 千歳に行く途中、千歳の天候が悪くなり、
 千歳で万が一Go Aroundしたら、Holding3分しか待ちできないほど燃料がなかったっけ・・・
 そして着陸後30分して千歳空港大雪で閉鎖されたよなぁ・・・」

新聞を読み、コーヒーを飲み、朝ゴハンを食べて早めに家を出ることにした。
審査の時は書類審査が最初にあり、免許や Log Book(飛行日誌)の Check を受けるので、
用意しなくてはならないし、キャプテンと一緒にブリーフィングを受ける前に、一度天気図をザッと見ておきたい。
外へ出るとかなり雪は強くなっていたが、まだそれほど積もってはおらず、通常通り羽田に到着した。
ディスパッチへ行くと何やら賑やか。
テレビカメラのようなものを持った撮影スタッフが何人かいた。
来年度の会社案内パンフレット用の撮影だったのだが私は見物をしている暇はない。
チェック、チェック・・・
書類審査が終わり、ブリーフィングを受ける為ディスパッチへ行くと外は吹雪いているのが見えた。
凄いなぁ・・・ 何かヤバそうだぞ・・・

ディスパッチャーによると、飛行機の機体に雪が積もり、それを除雪するためにグリコールをまく車の数が少なく、
出発時刻より 30〜45分程度遅れているとのこと。
今日は羽田−中標津−羽田(837、838便)の審査だが、中標津で50分空きの時間がある。
25分程度なら遅れても、折り返しの便は定刻に着ける。
何とかなるかなぁ・・・

飛行機へはCA4名と一緒に向かった。
そのメンツに驚き!
底抜けに明るく、キャグのセンスも抜群のCAも含め、みんな楽しい子達ばかりだった。
「今日は何かが起こっても1日中楽しそうだなぁ」 と審査だったが足取りは軽かった。
飛行機には Open Spotの為バスで移動。
整備さんによると飛行機の除雪が遅れており、いつ出発できるか未定とのこと。
待てど暮らせど除雪車は来ない。
08:35 Push Back予定だったが、乗客が乗り終わったのが08:45分頃、ひたすらコックピットで待ち続ける。
08:10発の石見行き575便がカンパニーで除雪車が来た旨、一報入れたのが 09:05。
この時点で1時間遅れは決定。
途中、我々がカンパニーで聞いた時は 3台のうち1台は故障し、2台はお湯をくみに行っており、
稼動台数は0台ということだった。
私達の飛行機に除雪車が到着したのが 09:26 だった。
08:15 頃飛行機に着いた時、周りはまだ舗装が見え、うっすらとシャーベット状の雪(スラッシュ)が
ある程度だったが、09:26の時点では、辺り一面厚く雪が積もっていた。
その間、滑走路1本は閉鎖され除雪作業が行われていた。

横殴りの雪の中飛行機の除雪が終わり、Push Back を Request すると、
管制官からしばらく待つように言い渡された。
ジャンボが Open Spot に入ろうとしていたが、Spot の除雪が間に合わず、Spot に入れないため
誘導路上で待機しているのだった。
10分ほどしてそのジャンボは本来VIP専用機(外国からの来賓、政府専用機用など)用の
Open Spot に入っていった。
それほど羽田は飛行機であふれ、駐機する場所がなかったに違いない。

Engine をかけて滑走路へ向かおうとした所、今まで Open だった滑走路が閉鎖され、除雪作業に入り
閉鎖されていた方が Open したのでそちらに向かった。
いつも見慣れている誘導路だが、舗装部分も芝生の部分も雪で隠れてしまい、
自分が今どこにいるのか分からなくなるほどだった。
まるで冬に吹雪いた千歳空港だ。

滑走路が一本しかないため、着陸機が狭い間隔で数珠つなぎに羽田へアプローチしている隙間に
離陸機を入れなければならなかったので、管制官もきっと大変だっただろう。
結局定刻 08:35 だったが 09:47 に Engine をかけ、10:17 に離陸した。

上昇中は FL290 から雲の上に出る FL330 までの間大きく揺れたが、
その先は気流良好で快晴の北海道へ向かい、ほとんど揺れることもなく中標津空港に着陸した。
定刻 10:15 のところを 11:40 に着いたのだから 1時間25分遅れ。
折り返しの 838便で1時間遅れにまでなんとか縮めてやろう。
そう考えていた。

中標津のディスパッチへ行くと 838便の出発時刻は未定とのこと。 どういうこと??
羽田では飛行機の除雪作業が遅れ出発機が立ち往生する中、着陸機はどんどん降りてくる。
吹雪で滑走路を交互に除雪するのに忙しく、駐機場を除雪するまで手が回らず、
着陸しても飛行機を駐機する場所がないのだ。
12:00 には 838便についての決定がなされることになっていたが結論が出ず、
15:30 に再度会議を開いて最終的にどうするか(欠航 or 遅延)結論を出すから、
それまで私達は事務所で待機することになった。
この時点で私は本来羽田−伊丹を便乗で移動する予定だったが、それには乗れないことが決定。
明日は有休を取っているのだが、大丈夫だろうか・・・・?

私達が待つのは仕事なのだから構わないとして、乗客はどうするのだろう?
定刻が 11:05 発の 838便を 15:30 まで引っ張って待ってもらっていいのだろうか?
もし万が一、そんなに待ってもらった上に 15:30になって 838便をやっぱりキャンセルする、
なんてことになったらお客さん怒っちゃうのではないか?
テレビでNHKを見ると、次々に各社は便を欠航にして行ったが、うちは待って様子をみることに・・・・

中標津の事務所に CA と待機していると、千歳−中標津往復の 485便が到着し、
折り返し 484便で戻っていくのを恨めしく見送った。
この時点で夜の便の羽田−中標津往復の(839、849便)はキャンセルになっていた。

待っている間、私達もお手洗いは一般旅客と同じ場所を使うのだが、
待っているお客さんの前を制服姿でウロウロするのが心苦しく、できるだけ我慢していた。

その後札幌、丘珠空港から中標津往復で来た YS−11 の乗員が降りてきた。
クルーによると、今日 CA は6ラン(6回離着陸をするパターン)でこの後函館に向かう
ハードスケジュールなので、折り返し丘珠行きの 484便は定刻の 16:00 に出したいから急いでくれ、
と言って飛行機に急いで戻って行った。
この時、私達の 838便のキャンセルを羽田の担当者が決定した。
私達は中標津に泊まることになったのだが、誰も着替え、制服以外に洋服を持っていない。
(コートもないのだが、今朝の気温は−21℃だった。)

電話が何度も鳴り、羽田のディスパッチが今後の私達のスケジュールを中標津のディスパッチャーに
連絡しようとしていたが、中標津のスタッフはそれどころではなかった。
486便を定刻に出すために全員必死に走り回っている。
どうやら羽田行きの 838便と 840便がキャンセルになったために羽田へ行けなくなった人達が、
とりあえず札幌に向かうことに急遽変更したために手続きに時間がかかっている模様。
486便のキャプテンは早く出発したそうにしているが(無線から聞こえる声で分かる)、
乗客は便を変更したいのだから仕方ない。
待っているお客さんがごった返しているターミナル内から、X−線を通り飛行機へ向かうのにも時間がかかるはず。
16:10 頃まで待ってください。」 とカンパニーで連絡を入れていたが、結局 16:20 まで出発できず
20分遅れになってしまった。

もし 838便をもっと早めにキャンセルしていれば 486便で札幌ではなく 484便で千歳に行き
そこから羽田行きの便に乗り換えることも可能だった。
16:20 に 486便で中標津を出て、札幌に着いてからバスか電車で千歳へ行っていたら
まず羽田行きには乗れていなかっただろう・・・・・
だが、これは結果論。
838便を早めにキャンセルして 484便で千歳へ向かっても、
千歳に飛行機がないため 千歳−羽田 が欠航なら羽田には行けないし、
その後羽田が Open になり、うちが臨時便を出して 中標津−羽田 を就航していたこともありえるのだ。
後から、あの時こうしておけば良かった、というのは簡単なこと。
将来起こることを予測しつつ今度どうするかを考えるのだが、
100%予測が的中することはあり得ないからだ。

さて、やっとゴタゴタが終わったが、私達のホテルがない!
羽田行きの 838、840 が欠航になったので、そのお客さん達はもう1泊中標津に宿泊するために
ホテルが埋まってしまった。
それでも中標津のディスパッチャーがあちこち電話をかけて部屋を抑えてくれた。

タクシーとホテルの手配は整ったが、私達は制服以外に着るものがない。
−10℃近くまで冷えるのにコートもジャンバーもなくパイロットと CA の格好で街中を夕食を食べに行くのも
みっともないし、とても寒い。 中標津のスタッフに無理をお願いして、
空港に置いてあるスタッフのジャンバーとコートを私達全員分の6着貸して頂いた。

天気のせい等の理由で、本来家に帰る予定だったのに帰れなくなり、
出先でホテルに泊まることを 「臨泊」 と呼んでいる。
私は本当に天気には恵まれており、過去5年間に経験した臨泊はたったの一度しかないのだが、
何故かその一回が中標津だったのは偶然とはいえ驚きだ。
あの時は雪で滑走路が滑りやすい状態であり、冬型の気圧配置が強く横風の制限を越えていたために
離陸できなかったのだった。

ホテルに着いてからキャプテン・ CA と中標津のスタッフお勧めの居酒屋 「幸」 へ食事へ行った。
本当に明るい4名の CA で大騒ぎしてしまった。
キャプテンはとても偉い方だったが一緒に楽しんでいるようだった。
私もかなり無礼なことを言ってしまったような気がする・・・・・・
みんなほとんどお酒を飲んでいないのに、しらふであれだけ騒げるのだから凄い。
最初に感じた 「今日は何が起こっても一日中楽しそうだなァ。」 というイメージは当たっていた。
もちろん沢山のお客さんに迷惑をかけてしまったことは、心の底から申し訳なく思う。
だが、ベストを尽くしてもダメだったのなら仕方ない。
心の中で謝って、あとは楽しんでもバチは当たらないかな・・・・・?

私達と一緒だったCAは羽田に戻ってから、同じ飛行機で大館能代に行くはずだったが、別の飛行機を使って
別の乗員とCAが羽田−大館能代は就航していた。
その飛行機も羽田へ帰ることができず、大館能代で臨泊、きっとそっちもみんなで宴会していたのだろう・・・
6時から食べ始め 8時にホテルに戻り、会社へ電話した。
東京のCA、乗員、大阪の乗員のスケジュールを管理する部門の地上スタッフは
まだ残って明日のスケジュールを作っていたが、それでもまだ未定とのこと。
私達が外食していた時に仕事をして頂いて、どうもありがとうございます。
お疲れ様です。
とりあえず、キャプテンは 838で羽田へ戻り終り。
私は838で羽田へ戻ってから伊丹へ便乗で移動。
これは決定。
CAのスケジュールはまだ決まっていなかった・・・

審査の方も慌ただしいなか無事終了し、ちょっとだけ開放された気分。
だがこれで安心しているわけにもいかない。
またすぐ次の審査がくるので、ここで気を抜かず日頃から少しずつ勉強しなくては・・・・・

部屋に戻って靴下とパンツを洗って早く寝た。



2001.01.28

臨泊で初めてのホテルに泊まったせいか夜、時々目が覚めた。 外からタイヤが滑る音が聞こえてくる。
道路が凍りついているため、発進する時かなりアクセルを踏み込まないと前へ進まないのだろう。
タイヤは氷の路面をシュルシュル音をたてて空回りしながら、少しずつ前に進んで行く。
こうしてゴムタイヤが路面の氷を研磨して、さらにピカピカ、すべすべになるのだ。
私も札幌にいたころよく聞いた音で、とても懐かしかった。

朝食をとり、途中からレストランに来たキャプテンとしばらく話をしてから出勤のため部屋へ戻ることに。
ロビーにいたお客さんにキャプテンは何やら話し掛けられていた。
後で聞くと昨日東京に帰り損ねたお客さんで、今日は飛べるのか、不安そうだったようだ。
でも今日は大丈夫です!
やはりジャンバーを羽織っていても、2人揃って紺のズボンに紺のネクタイを締め、
白いワイシャツと黒い革靴を履いていれば、私達が乗員であることはバレバレだったのだろうか?

何事もなく羽田に到着。
いつも見ることの無いユナイテッドの B747−400 が2機、VIP用の駐機所に泊めてあった。
後で聞くところのよると、昨晩成田の天候が悪化したのだそうで、きっと Divert してきたのだろう。

今日公休だった CA 1名は帰宅し、1名は DH で広島へ向かった。
彼女はこれから2泊3日のパターンだが、恐らく家に着替えを取りに戻っている時間はなかったはず。
かといって会社に服が置いてあるはずもない。
どうしたのだろう・・・・・
残りの 2名は 羽田−大館能代 を往復後 DH で札幌へ向かったのだろうか?
確か彼女達も泊まりのパターンになるが服はないはず。
3名の CA の運命を知る暇もなく、私は DH で伊丹へ向かった。



2001.01.30

今日のキャプテンはこの間の大雪で私が中標津から帰れなくなったとき
羽田−石見を1往復半(575、576、577)し、石見 → 伊丹(180)で終わるパターンだったが
575便で石見に到着後羽田に戻れず 180便まで待機してから伊丹へ行ったのだそうだ。
その時の CA 4名のうち 3名は、伊丹に到着後新大阪へ行き新幹線で広島まで移動して
次の日の仕事に備えたのだった。

伊丹−高知を2往復してから宮崎へ移動するパターン。
朝一の便が出発する前、貨物を搭載する機材が動けなくなってしまったため
けん引して飛行機から離すのに時間がかかり 5分遅れた以外、何もない穏やかな一日だった。

宮崎へは DH での移動だったが、CA のアナウンスで大学の同期が副操縦士をしていることが分かって嬉しかった。
宮崎空港へアプローチ中、雲を通過したとき大きく揺れた時に目が覚めた。
どうやら離陸後すぐ爆睡していたようだった。

宮崎のディスパッチへ行く途中、
忙しそうだった同期の副操縦士と通りすがりに二言三言話を交わしてからホテルへ向かった。



2001.01.31

06:00 に起きる予定だったが、04:30 に目が覚めてしまった。(宮崎のホテル)
ドアの外に頼んでおいた新聞がない。
フロントに電話すると、まだ早いので配り終わってないとのこと。
歯を磨き、シャワーを浴び、コーヒーを飲んでから再度新聞チェック。
あった、あった。
まず天気図を見る。
お、今日は天気良さそうじゃん。(宮崎 → 福岡 → 新潟 → 福岡 → DH 伊丹 のパターン)
西から高気圧が張り出していて日本海側も悪くなさそうだ。
新潟 → 福岡 は地上の天気が悪いとき(冬)上空のジェット気流は速い場合が多く、しかも南西の風のため
まともに向かい風となりとても時間がかかる。
今日は地上に高気圧があるので、ひょっとすると北西風。
進路に対して右前方からの風のため向かい風成分が少ないかも。
しかもジェット気流そのものの風速も遅い可能性がある。
速いときは 160〜180kt も吹いているが、運が良ければ 100kt 以下だったりして。

福岡を離陸して FL370 に到達。
途中 32,000ft 以下で大きく揺れる場所もあったが、その上は気流スムース。
しかも風速は予想通り 90kt で北西風だった。
新潟へは追い風成分が減るため、到着が若干遅れたが、福岡へ戻るのは楽なはずだ。

新潟へ向けて降下を開始。
小松近辺の Cloud Top(雲の一番上の部分)は福岡より高く 35,000ft。
そこから下は雲の影響で揺れた。
32,000ft までは 90kt だった風が 33,000ft で 120kt に増速したため揺れ
さらに 32,000ft で 90kt まで減速したため揺れた。
FL320 以下も in Cloud(雲の中)で揺れたため、消去法で判断すると帰りの高度は 39,000ft しかない。
高い高度は酸素が薄いし疲れる。
せめて 35,000ft が良かったけど、仕方ないか。

アプローチ中、カンパニーから無線で連絡が入った。
空港の北15マイル(28km)の辺りで漁船が転覆し、行方不明になっているため
捜索救助のためのヘリコプターが多数空港周辺を飛行中とのことだった。

新潟空港は天気良好で全く問題なく着陸した。
折り返し定刻で出発できたが、それまでにまだ漁船は見つかっていなかったようだった。
無事であれば良いのだが・・・・・・

新潟へ来るとき最近はいつも雪雲に覆われており、海が見えなかったことがほとんどだったが、
今日は海上に雲が少なく、雪化粧した佐渡島がとてもきれいに見えた。

予想通り FL390 は雲の上で気流スムース。
ジェット気流は弱く 95kt 程度で北西風。
西から除々に天候は悪化しており Cloud Top は福岡も 35,000ft と行きより高くなっていた。
福岡空港へ向けて降下を開始すると、36,000 〜 20,000 ft まで揺れが続いた。
FL390 で正解だったわけだ。
向かい風が弱かった分、いつもより15分早く福岡に着陸した。

DH で福岡から伊丹へ移動中、NHK ニュースを見ていたら、
新潟沖で転覆した底引き網漁船 「第七大福丸」 のことを放送していたのには驚いた。
まだ乗組員5名は行方不明のようだった。
一刻も早く見つけて救出してあげて欲しい。