2001.03.01

私が操縦していたフライトでの出来事。

気流があまり良くなく、かろうじて我慢できた 31,000ft から降下するよう管制官に指示された。
他に飛行機がいるのだから仕方がない。
降下中揺れそうだ。
シートベルト着用のサインを点灯させて降下。
管制官に指示された高度 28,000ft はしばらくは安定していたが、やはり西へ進むにつれて気流が悪くなってきた。
24,000〜28,000ft が揺れていると、カンパニーで誰かがレポートを入れていた。
すかさず 22,000ft まで降下し、再びベルトサインを消した。

この間、私は CA をインターフォンで呼び出し、てきぱきと状況を説明し、指示を出せたと思う。
カートを出してサービスをしているのか?
(出していれば片付けるのに時間がかかるから、すぐにはシートベルトサインを点灯できない。)
何分後にベルトサインを点灯させるから、それまでに片付けを終わらせるように、と伝えたり、
あと何分程度で再びベルトサインを消せそうかを教えたり、等々。

こういった事項は、今までの私は不安でいつもキャプテンにお伺いを立てていたものだ。
「高度を変更したいのですが、どうでしょうか?」
「ベルトサインをつけた方がよろしいでしょうか?」
自信がないから自分ですぱっと決めることが出来なかった。

最近は、飛行前に見た天気図を頭の中で思い出しながら現状と照らし合わせて解析し、
どの高度を選ぶべきなのか? どのくらい揺れそうなのか?
少しずつ分かるようになり、自分に自信が持てるようになってきた。
だから迷わずどうするのか決定し、指示を出せるようになったのかもしれない。(もちろんまだまだ半人前だが。)

シートベルトサインを点灯させ、降下を開始した。
と、同時にCA にインターフォンで呼ばれた。
お客様に呼ばれているのですが、離席してもよろしいでしょうか?
「あと 5分程度で揺れそうな場所を通過しますので、気をつけて動いて下さい。
 もし、危ないと思ったら、空いている席にすぐ座って下さいね。」

しばらくして CA から再びインターフォンで連絡があった。
お子さんが戻されてしまったのですが、あと片付け終わりました。」 
「了解しました。 ここから先、揺れそうなので座っていてください。」
と私は言いインターフォンを切ろうとすると、キャプテンがインターフォンを取って、CA と話しだした。

キャプテン : 「座席のカバーは取り替えた方がいいですか?」
CA     : 「そうですね。 変える必要がありそうです。」
キャプテン : 「何色のカバーですか?」(A320 の座席は、灰色と緑色のものがある。)
CA     : 「緑色です。」
キャプテン : 「分かりました。 降りてからすぐ交換できるよう、カンパニーで整備さんに伝えておきます。」
CA     : 「ありがとうございます。 よろしくお願いします。」

そうかー。
そういうことにも気がつかないといけないのか・・・・・・
それまで調子良く業務をこなしていた私は、ハッと初心に返った。
私には全く思いつきもしなかった。
まだまだだなぁ・・・・・・

例え一生懸命考えても、上空で起こりうるであろう全ての出来事を地上で思いつき、
そういった場合にどう対処すればいいのか、想像だけでシミュレーションして、
最善の解決策を思いつくことは不可能なのだ。

気流が悪いときにどうすればいいのか、やっと私にも少しずつ分かるようになってきたが、
それは私が過去に上空で経験して、どうすればいいのか分からなかったとき、
経験のあるキャプテンに考え方、対処の仕方を教えてもらったからこそ私にも出来るようになっただけのこと。
教えてもらわなければ、なかなか分かるものではない。
きっと何度も同じような状況を経験し、対処に失敗しながら学習していくのだろう。
もし次回、お客さんが気分が悪くなり、戻してしまうようなことがあれば、
私にも今日キャプテンがしたようなことが出来るだろう。

誰かに聞いたことがある。
グレート・キャプテンになれるかどうかは、過去に起こった出来事をどれだけ忘れないでおけるか、にかかっている。
本当にそうだと思った。



2001.03.04

新潟 → 福岡(330便)
福岡の滑走路の方向は 16/34 だ。(16 は160°方向に向けて着陸する、つまり南に向けて着陸する)
16 に ILS がついており、最低降下高度は対地 250ft。
34 は 16 からのサークリングのため最低降下高度は対地 1000ft。
飛行場の周りには高い山があり、34 は最低降下高度が高く設定されている。
天気が悪く雲が低いとき、または視程が悪く滑走路が見えにくいときは 16 で着陸した方が
滑走路を見つけることができるので、着陸できる可能性がはるかに高い。

今日は寒冷前線の通過とともに西風が強くなった。
その風の方向はどちらかというと滑走路 34 に対してより向かい風だった。
34で 着陸するべきだが、34 に回り込む前に対地 1000ft で飛行し、
滑走路を右斜め下に眺めながら旋回していると、対地 500ft 程度しかない雲に入ってしまい、
着陸できずゴーアラウンドしてしまいそな天気だった。
16 でなら雲の下に出れるので着陸できるのだが、着陸が許される最大の追い風を超えている場合が多かった。

風には息があり、強くなったり弱くなったりするが、
強くなったときに、着陸制限 15kt の背風を超えてしまう可能性があった。
また、次第に横風成分も強くなり、時々着陸制限を越えるような横風も吹いていた。
滑走路は雨で濡れていたので制限値は最大 25kt だった。

風が280度方向から 35kt 吹いているときがあったが、
そのとき滑走路に対して横風 30kt、16 で降りると追い風 17.5kt。
いずれも着陸制限を越えていた。
この風が安定して一定の値ではなく、強くなったり弱くなったり
また方向が変わるので、その度に横風制限内に収まるときもあれば
16 で着陸が許される追い風 15kt 未満のときもあった。
また 16 に対する追い風成分が強すぎ、34 でしか降りれないときもあった。
雲が低すぎ 34 に回り込めない状況のときもあったり、
空港周辺の雲に隙間ができて雲の高度が高くなり、34 に回り込むのが可能な天気になるときもあった。
管制官もさぞ困ったことだろう。
使用滑走路が 16 になったり 34 になったりころころ変わったが、
その度に出発機と到着機の管制間隔を設定し直さなければならないからだ。
使用滑走路の変更は管制官が天気状況を見て判断する場合もあるが、
パイロットが判断して管制官に要求する場合もある。
上空は多くの飛行機で大混乱していた。

福岡空港から 40km の地点に 13:03 に私達は既に到着していた。
そのまま降りれば定刻の 13:15 には着陸が出来ていた。
ところが管制指示により、13:40 まで上空で待機することになった。
グルグル旋回しながら待っている私達の下には 3機ほど同じように待機している飛行機がいた。
風が変わり使用滑走路が変わると待機する時間が延長されていく。
当初 13:40 と言われていたが、それが 13:45 になり、13:51 になった。

新潟を出る前、キャプテンがひょっとすると福岡で待たされるかもしれないから、と
予定されていた燃料より 20分程度さらに上空で待機できる燃料を積んでいったのが良かった。
もしその余分な燃料がなかったら、13:40 を待たずに長崎にダイバートしているはずだった。

13:51 まで待機すると残燃料は 1回アプローチする分しかなかった。
もし気流が悪くゴーアラウンドすれば、再び上昇して順番を待って着陸するだけの燃料がない。
したがって長崎へダイバートしなければならない状況だった。

私達の前の JAL がアプローチを開始した。
ILSで 16 に着陸する計画だったようだが、あまりにも追い風が強く、途中から 34 に切り替え
滑走路を回り込もうとした。
だが、雲に入りあえなくゴーアラウドした。
やばい、私達もゴーアラウンドするのだろうか?
満席近いお客さんを積んで長崎へ行くのだろうか?
そのとき吹いていた風は、規程値には収まっており、16 で降りることが許される値ではあった。
だが、接地寸前に地面にたたき付けられるような乱気流がある可能性もある風だった。

いつもより慎重にキャプテンはアプローチを開始した。
追い風のときは飛行機はなかなか減速しないので、かなり手前からパワーを絞り、着陸態勢を整え減速していった。
対地 2000ft を水平飛行し飛行場に近づき、そこから降下を開始。
高度を降ろすにつれ、飛行機は暴れ出した。
右斜め後方からの強風だ。
横風は強くコックピットの正面に滑走路はない。
正面より30度近く左にずれて滑走路が見える。

風の変化とともに速度計上の速度の指示が大きく変化する。
切ってはいけない最低速度近くなると、私は 「スピード」 とコールする義務がある。
ベテランのキャプテンだが、私が 「スピード」 とコールせざるを得ない速度になってしまうのだ。
降下しているのに上昇に使うパワーを入れても速度が増えてこない。
と思うと次の瞬間 20kt(時速 38km)も速度が増えており、パワーをアイドルまで絞る。
絞ると同時に一気に速度が減り、また 「スピード!」 と私がコールする。

スッチャカメッチャカに暴れまわる空気の中を 3°の Path から外れないように、
速度が超過しないように、また減りすぎないように、キャプテンは見事なまでに飛行機をコントロールしていた。
隣に座っている私はヒヤヒヤ、ハラハラしっぱなしだ。
いつゴーアラウンドしてもおかしくない状況のなか、ゴーアラウンドしてから後の手順を自分自身にブリーフィングをしつつ
飛行機の速度と滑走路に対する進入角度をモニターし続けた。
少しでも異常を感じたら、即座にそれをコールしなくてはならない義務が副操縦士にはあるのだ。

滑走路末端を通過する直前、飛行機が落下するような下降気流があった。
キャプテンはすかさず離陸の最大パワーを入れたが、上昇することはなく、飛行機の落下を止める程度だ。
ゴーアラウンドするかな?と思った瞬間上昇気流に変わり、フワッを一瞬機体が浮き上がった。
即座にパワーをアイドルに絞った、と同時に接地した。
すかさずリバース(逆噴射)!
右と左のタイヤが交互に接地したり浮き上がったり 2、3回バウンドしながらようやく両タイヤが滑走路についた。
垂直尾翼に当たった横風が風見鶏のように飛行機を横風の方向に回転させようとするのを
足を踏み込むことで押さえ込み、すぐオートブレーキをはずし、両足で思い切りブレーキをかけた。
コンピューター制御のオートブレーキでは着陸滑走の減速率が遅いからだ。



2001.03.06

スタンバイ稼動して、福岡の乗員の代わりに南の島めぐり。
関空 → 宮古島 → 那覇 → 伊丹(DH)
久々に宮古島と那覇に行ったのだが、海上は雲に覆われ上空から何も見れなかったのは残念だった。

那覇空港は新しいターミナルになって以来、日中混む時間帯になると
着陸後、Spot-in するまでに時間がかかると聞いていたが、今日は10分待った。
一緒だったキャプテンは、前回同じパターンで那覇に着陸後、25分待たされたそうだ。
ターミナルの構造上、Push Back して出発する飛行機と、着陸後に Spot-in する飛行機が
狭い場所に集まるため、身動きが取れない。
出発機がすぐに出れれば問題ないのだが、自衛隊の訓練機が離着陸を繰り返すので、
その間にしか民間機が入れない状況なのだ。
羽田も待つときは待つが、今日の那覇ほど悪い状況はないであろう。

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アクセス・カウンターが 「10,000」 を超えた!
沢山の人達にダイアリーを読んで頂いているのが分かり、ここで改めて感謝したい。
ありがとう!!

私のホームページ、以前は飛行機に関することは全く書いてありませんでした。
他のエアライン・パイロットの方々のHPに、充分過ぎるほど飛行機の詳しい情報が載っていたので、
私が同じ事をしても、何の新鮮味もなくつまらないかな?と思ったからです。

最初は 「Gallery」 と 「プロフィール」 しかなかったのです。
そのときインフォシークの検索エンジンで私のHPにたどり着いた方からメールを頂きました。
私にとって、インターネットを通じてメールを受け取ったのはそれが初めてでした。
パイロットのくせに飛行機関連が何も記載されいないHP。
その代わりにジュエリーやら木の彫刻やら、関係ないものばかり載せていた私に興味を持ってくれたようでした。
その彼が送ってくれたメールに書かれていたことをヒントに、私は 「ダイアリー」 を書くことを思いついたのです。
彼のアドバイスが無ければ、みなさんに喜んで頂けるコンテンツを提供できなかったでしょう。
そういった意味で、彼には本当に感謝しています。

これからも更新していく予定ではありますが、なにぶん時間がかかるので、休むことがあるかもしれません。
でも何らかの形で続けていくと思いますので、末永くお付き合い下さい!



2001.03.07      ランプ (Part 1)

飛行機が駐機してある場所を 「ランプ」 と呼びます。
そのランプでの出来事。

オアーストラリアで訓練中のこと。
ランプは斜めに歩かない。 走らない。 という原則がありました。(by 日本人教官)
ディスパッチのある建物から外に出て、飛行機までまっすぐに歩いてはいけないのです!
WHY? WHY? WHY? WHY? WHY? WHY? WHY? WHY? WHY? WHY? WHY? WHY? WHY?
ドアを出てから建物に沿って歩き、飛行機が体の真横にきたら方向転換して飛行機に向かって歩いていくのです。
飛行機から降りてからは、建物に向かって歩き、建物にぶつかったら建物に沿ってドアまで移動です。
オーストラリア人の教官も何故だか分からなかったようで、
無視して斜めに飛行機からドアまでまっすぐ歩いていました。
もちろん私も日本人教官がいないときはそうしてました。
また、走ってはいけない、理由も未だに分からずじまいです・・・・・・

オーストラリア人の教官に中年の女性の方がいました。
私達は 「マダム」 と呼ばさせられていました。
ヨーロッパのどこかの国からオーストラリアに移住してきたのです。
さて、マダムは飛行機を先に降りて、ランプを歩いて行きます。
私達生徒は、コックピット内で後片付けしたり、同僚と話をしながらゆっくり飛行機を降りました。
ディッスパッチのある建物へ向かって歩こうとしたその時、視野に入ったのは、
ドアの前にドアに向かって立ち止まっているマダム!
どうしたのだろう?と思いつつ、走らず、垂直にランプを歩いてドアまで行きます。
そしてマダムをよけてドアを開けると、「THANK YOU.」 と先に入ろうとした生徒を押し分け
マダムが先に入っていきました。
そうです、レディー・ファーストなのです。
以来、マダムがとっとと飛行機を降りると、生徒は大急ぎで後片付けをし、ランプを走って斜めに横断し、
マダムのためにドアを開けるようになりました・・・・・・・・



2001.03.08      ランプ (Part 2)

私が最初に YS−11 の副操縦士として勤務したのは冬の札幌。
ランプは雪や氷で覆われていました。

副操縦士というのは、飛行機がランプに入ってから(Spot-inしてから)することがキャプテンよりあります。
キャプテンは自分の飛行日誌に今飛んだ路線の飛行時間を記載して、
ヘッドセットやチャート(空の地図のようなもの)をフライトバックにしまって、コックピットを出て行きます。
副操縦士はそれプラス、飛行機に搭載されている飛行日誌に
飛行時間(ランプ・アウトしてからランプ・インするまで)、フライトタイム(離陸から着陸まで)、
残燃料などを記載しなくてはなりません。
エアバス320はコンピューターが時間を計算してくれますし、燃料計はデジタルなので、
それらを書き写せばいいのです。
しかし、YS−11は燃料計はアナログで大雑把にしか目盛りがないので、
その間を正確に読み取らなくてはならないし、時間に関しては、
「9時37分に出発して10時23分に到着ってことは、
 えーっと、10時まで 23分だろ、で 23 に 23 をたすと 46分か。」
ってな具合に2回(飛行時間とフライト・タイム)計算するのです。
地上で計算するのはどうってことありませんが、となりでキャプテンが後片付けを始め、急がなくてはいけない状況で、
しかも 「デブ、飛行時間いくらだよ? 早くしろ? 間違えるな。」 とせかされるとあせってしまい、
計算間違いをしてしまうこともあります。
計算間違いをして、それを飛行日誌に書くと、訂正に訂正印が必要だし、見た目が汚くなるので当然怒られます。
また、飛行機の搭載日誌も公的な書類なので、書き直しは汚く見えるので、怒られます。
だから余計にあせり計算を間違えてしまうのです。

私が飛行機に搭載されている飛行日誌に記載を終えるころ、キャプテンはすでに上着とコートを着て、
飛行機を降りて行きます。
私は自分の飛行日誌を書いている暇などありません。
ヘッドセット、チャート、ペン、その他もろもろのものをかき集めてフライトバックにグチャグチャなまま投げ込み、
上着とコートを着てボタンをとめる暇もなく、走ってキャプテンを追いかけます。
「デブー!、走るなー!!」 走るのをやめると
「デブー!、早くついてこいー!!」
早歩きするのですが、キャプテンも外は寒く、早く室内に入りたいので早歩き。
距離が縮まるわけがありません。 すると、また
「デブー! 何モタモタしてんだー!!」 「前閉めろー!! みっともないだろー!(上着とコートのボタン)」
立ち止まりフライトバックを置いてボタンを閉めていると、また
「デブー! 遅いー!!」
もう! 僕にどうしろって言うのーーーーー!!??

そうです、当時私は 90kg のデブでした・・・・・・(ダイエットページの93kg時代参照

私がオーストラリアでの長い訓練を受けた後、最初に副操縦士として乗務した時
指導教官として私を担当していた上記のキャプテンは厳しく、また面白い方でした。
右も左も分からない私を、1日中怒鳴り散らしていました。(愛情を込めて)
本当に厳しかった先生・先輩・上司ほど記憶に残るものですよね。
今となっては楽しかった思い出です。
そのキャプテンとの ”笑えるお話” はまた紹介して行きます。



2001.03.09

昨日は定期訓練でシミュレーターに乗った。
午後一番の飛行機で伊丹から羽田に移動し、社用バスで訓練センターへ向かった。
ブリーフィングは18:00〜19:00まで。
その後19:00〜21:00までがキャプテンの操縦で、21:00〜23:00までが私の操縦。
23:00〜24:00までデ・ブリ(ディ・ブリーフィング)。
実際にはシミュレーターの調子が悪かったためキャプテンのフライトは2時間半かかり、
デ・ブリが終わってから家につき、ベッドに入ったのは01:00過ぎだった。
花粉病で目と鼻がかゆく、暗いシミュレーター内の計器(テレビ画面と同じ構造)を見ていると
さらに目が疲れた。(4時間、暗い部屋で至近距離でテレビを凝視しているようなもの)

定期訓練は年に1回ある。
離陸滑走中にエンジンが壊れたり、火を吹いたり、機体に穴が開いて緊急降下したり、
緊急事態を想定するのだが、それにどう対応するかを訓練するもの。
この訓練の半年後には同じような内容で定期審査がある。
定期訓練はあくまでも訓練であり、合否は問われないが、定期審査は不合格になる可能性もある。
だが、私達にとって両者はあまり変わらない。
出来る限り手際良く緊急事態を処置できるに越したことはないからだ。

フライトそのもの、操縦の技量については、今回はあまり指摘がなかったが、
私のとった行動の根拠について、規程にはどこに、どう書かれているのか、
デ・ブリで質問攻めに合い、撃沈されてしまった・・・・・
課目がうまく出来れば良いわけではないところに、パイロットの難しさがある。
「私はこう考えたので、こう行動しました。」だけでは認められない。
「規程にはこう記述されていますが、私はこう考えたので、こう行動しました。」
と答えることが要求されている。
要領の良さや、気転がきくかどうかも大切だが、その前に前提となる根拠を大量に暗記しなくてはならない。

難しい作業をするとき、人は脳を1点に集中させています。
その作業の途中で瞬間的な判断を要求されるような事柄が発生した場合、
えーっと・・・と考えている時間はありません。
ただでさえ脳はその作業を成し遂げるために、100%に近い能力を使っていますので、
別途に発生した事柄に対処するために使うことのできる脳の容量は、
残り数パーセント程度でしょう。
このとき、それをどう処理するか、根拠になる脳の中のデータ(ここでは規程)を
サーチする時間はほとんどありません。
つまり、記憶する、暗記する、といっても、何て書いてあったっけ?
というレベルでの記憶では役に立ちません。
「1たす1は2」ぐらい当たり前、考えなくても答えが出せるレベルの記憶でなくては
使いものにならないのです。
記憶も反復することで常識になり、考えて思い出す必要性がなくなりますが、
そのレベルで知っていなくてはならない規程が無限大にあります。
この「常識」を増やしていくことが、機長への一歩なのかなぁ、と思います。

今日はロフト訓練。
掲示板(142)で説明したことに関する訓練。
18:00〜19:00 ブリーフィング
19:00〜21:00 ロフト訓練
21:00〜22:00 デ・ブリ
どんなハプニングが設定されるやら・・・・・・



2001.03.10

昨日のロフト訓練は、教官、キャプテン、私、3人とも花粉症に苦しみながらも、充実したものだった。
内容についてはうちの会社の乗員もこのHPを見ているので、書くことはできない。
内容が分からないことがロフト訓練の前提になっており、使った資料は全て回収されるし、
訓練内容を他人に教えることも許されていないのだ。

22時まででデ・ブリは終わり、23時には家に帰り床についた。

朝、5時にせっかく心地よく寝ていたのに、花粉で突然くしゃみをして飛び起きた。
6時まで頑張ったが息苦しく眠いのに寝ることが出来ず、朝一の羽田発伊丹行きに乗ることにした。
コーヒーだけ飲んで 6:05 に家を出て、飛行場へ向かった。
出発 25分前に到着したが、伊丹行きの初便はなんと満席! だが、幸いキャンセルが多く、乗ることが出来た。

7:45 に羽田を出発し、8:50 に伊丹到着後、9:05 発のバスに飛び乗り、家についたのは 9:40。
速攻 10:00 OPEN のジムへ行き、ウエイト・トレーニングをし、11:00 に帰宅。
もうヘロヘロ。
吐き気が・・・・・
オリジナルのスケジュールでは 13:30 に帰宅予定だったので、とても時間が有効に使えそう。
と思ったが、結局 2 時間昼寝をしてしまった。



2001.03.12

松山発千歳行き(237便)に、松山の Tower の管制官が乗ってきた。
乗客としてではなく、何かの研修のようで、コックピット内のジャンプ・シートに座った。
日帰りコースだそうで、帰りもANKの千歳発松山行き(238便)に乗って帰って行った。
22才の女性で管制官になってからまだ1年とか。
色々管制官の苦労話を道中聞くことができて楽しかった。
というか、質問攻めにしてしまったようで、ひょっとすると困っていたかも・・・・
彼女も私達乗務員の勤務状況を聞き、その激務さに驚いていた。
とても身近でありながらあまり知らない他の職種の話を聞いたり、情報交換できるのはなかなか楽しい。
管制官とパイロットの会議の場(ATC部会なるもの)は時々開かれるのだが、
やはり会議なので、本音を聞くことはできないであろう。

彼女は千歳空港が初めてということだったので、
行き方の分かりにくい、つまり Lost Position しやすいディスパッチへの行き方を教えてあげた。
彼女が松山へ帰るときに乗る便までには時間があり
(237便 ⇒ 485、484便で千歳−中標津往復 ⇒ 238便)
お昼もまだということだったので、独断の偏見で私がいつも行く食堂を勧めておいた。
千歳で時間ある時にみんながよく行くラーメン屋やそば屋、
それに CA が比較的好むケンタッキー・フライドチキンではなく、
JASサイドの到着ゲートの向こう側、1階の隅にある「オアシス」だ。
社員食堂のように安くて、定食を食べることが出来る。
私はどちらかというと庶民的な場所の方が好きだ。
一応イクラ丼のような北海道らしい食べ物もあるので、女性にもいいのではないだろうか?

管制官をディスパッチへ案内し、飛行機へ戻るときにエレバーターで一緒になったA社のCA達が
後でケンタッキーでチキンを食べるだの、ポテトがおいしいだの話しているのを聞いて
お昼前で腹がすいていた私は唾を飲みこみながら、
「うーーん。 僕も食べたいなァー!」と言葉をはさんだ。
無視されたり、場がシラけることなく、みんな笑ってウケてくれて言ってみて良かった。

私達は238便の後、千歳−中標津を往復した。
中標津 → 千歳は私の担当だった。
気流も良く、サクッとランディングしてDHで東京へ行くぞ、と思っていたが、
急に千歳に雪がかぶり天候が悪化したが、なんとか降りれることができる気象条件を維持できた。
DHまで1時間ちょっと空き時間があったのだが、一時的と思われた雪がいつの間にか吹雪に変わっていた。
あれだけ雪が降ると機体除雪に時間がかかるし、滑走路は1本しか使えないから離着陸の順番待ちも長くなる。
天気が本格的に悪化する前に仕事を終えることが出来てラッキーだった。



2001.03.13

朝から風が強かった。
羽田の地上風は 330°/25kt、強い時で 35kt。
時速に換算すると強いときで 60km 程度だ。
上昇、降下ともに 3,000ft 以下の低高度で大きく揺れた。

ディスパッチで飛行前に見た高層天気図の予報によると、
私達の飛行時間帯に、東北の太平洋側を深い気圧の谷が通過するはずで、
中標津方面は丁度その気圧の谷の中を突っ切る形で飛行することになっていた。
気圧の谷が西から東に移動していく中を飛行する際、時間とともに風向、風速が変化していくため、
巡航中気流が良好でも安心できない。
いつ突然揺れだすか分からないのだ。
だが、以外と気圧の谷の通過速度が早かったようで、私達が巡航高度に達したころには
気圧の谷は通過した後で、気流は関東から北海道の上空までずっと良かったのは幸いだった。

襟裳岬の先端付近から中標津まで見渡すことが出来るほど、視界は良好。
以前見たときよりも釧路から根室半島にかけて海上には流氷が増えていた。
キャプテンがそのことをインターフォンで CA に教えると、
CA はすかさず客室にアナウンスを入れていた。

釧路から中標津を結んだ直線より真下から東側にかけて、自衛隊が砲弾を打つ練習場がある。
練習時に弾を撃ち込む土手のような丘(着弾点)がどこか、キャプテンが教えてくれた。
真っ白な雪景色の中に、茶色く地面が見えている場所で、すぐにそれと分かった。
そこに練習場があるのは知っていたが、言われないとなかなか気が付かないものだ。

中標津 → 羽田 は着陸後の Spot は Open で408番の予定だった。
羽田に近づきカンパニーで再確認すると、それが112番に変更になっていた。

羽田に到着してから次の大館能代行きまでは1時間ほど余裕があった。
通常ならクルーバスに乗り Open Spot からターミナルへ向かい、ディスパッチまで天候を確認しに行く。
だが、今日は大館能代方面は空港周辺の天気、及び巡航も良好なのが分かっていたので、
飛行機で待機しておく予定だった。

Spot が変更になった時点で、私は気を効かせて 「キャプテン、ディスパッチへ戻りますか?」 と聞いた。
同じ Open Spot とはいえ、408番 Spot は歩いていける場所に喫煙所があるのだが
112番 Spot にはない。
そしてキャプテンが喫煙家であることを私は知っていた。
PBB(Passenger Boarding Bridge)のついている Spot では
飛行機からターミナルに歩いて入り、喫煙することが出来るので問題はないのだが、
Open Spot の場合は機内とランプ(駐機所)での喫煙が許されていないので、少々面倒だ。
そういったことへの配慮も副操縦士の仕事なのだ。

ヘビー・スモカーのキャプテンの中には、数時間の飛行が終わって駐機した場所が Open Spot で、
便が遅れているためターミナルまで行きタバコを吸っている時間がなく、
降り返し長時間の路線を禁煙のまま飛行すると、ちょっとしたことでブチ切れてしまう方もいる。
一番被害をこうむるのは密室内にちょこんと座っている副操縦士だ。
たかがタバコ、されどタバコ。
私達、副操縦士にとっては死活問題なのである。

キャプテンがディスパッチへ行くときには、通常副操縦士もついて行く。
あらかじめディスパッチに行くことが分かっていれば上空で弁当を食べておいたのだが、
Spot の変更があったのは着陸前の忙しいときだった。
私は最初から弁当は中空きに食べる予定だったので困った。
ディスパッチへ行くと私は弁当を食べる時間が短くなり、急いでかきこむ羽目になる。
どうしようかなァ・・・・と考えていたが、キャプテンが自分一人でディスパッチへ行くので
私は飛行機に残りゆっくり弁当を食べていていい、と言ってくれて助かった。

羽田発大館能代行きは通常追い風、帰りは向かい風のことが多いのだが、
今日は上空の深い気圧の谷が通過した直後だったため、行きは向かい風、帰りは追い風だった。
そのため大館能代への到着が遅れ、また
3月から冬の間運休していた 大館能代 → 伊丹 の出発時刻に重なってしまい、
大館能代空港の上空でさらに時間を食ってしまった。
結果的に定刻より15分近く遅れての到着だったが、
清掃さん達があっという間に仕事を終え、速攻で乗客の搭乗も終わり、
(あまりにも急いでいたためにカバンの搭載忘れが2件ほど発生して、積み直しをしたが)
ほぼ定刻で大館能代空港を出発した。
巡航では真後ろからの追い風、時速180kmを受け
羽田へのアプローチはショート・カットできる Visual Approach 34L がきたため
定刻より10分も早着してしまった。

それにしても 羽田−中標津、羽田−大館能代 の往復はしんどい!



2001.03.14

575便で羽田を出発し石見空港へ向けて飛行中、久々に聞いた。
「コーヒーとウーロン茶、お願いします。」
管制の周波数で CA に飲み物のオーダーをしてしまったようだ。
誰も何も言わず、シーンと静まりかえっていたのはちょっと寂しかった。

石見のカンパニーと交信しようとしたとき、プチッ、という音とともに私の無線機が壊れてしまった。
送信しっぱなしのときに聞こえる音がし、無線機をコントロールするパネル上の
全てのライトが点灯してしまった。(通常ではあり得ない状態)
飛行機には無線機が3つ搭載されているので、3番目の無線機に切り替えて特別何事もなく石見へ着陸した。

石見空港では整備さんがサーキット・ブレーカーを抜き、再度入れ直すことで、
無線機は元の正常な状態に戻った。(電気のブレーカーを落としてから入れ直すようなもの)
無線機そのものの故障ではなかったようだった。

石見から羽田へ向けて FL330 で飛行した。
途中、浜松の辺りで右へ旋回するよう管制官から指示がきた。
羽田へ到着する飛行機が私たちの前にいて距離が詰まっているのだろう、と思ったがどこにもいない。
私たちの真横に 37,000ft で飛行しているジャンボを発見。
どう見ても羽田までの経路では、ジャンボより私達の飛行機の方が先のはずだったが、
何故か私達が後回しにされてしまった。
羽田までの距離が私達の方が近く、しかも高度が下だったので、順番は私達の方が先のはずなのだが・・・・
福岡から帰ってきたジャンボで、定刻は彼らが11:30で私達は定刻11:40。
ジャンボの方が飛行速度が速いし、私達ですら定刻より遅れて到着しそうだったので
確実に遅れているジャンボが先に行っても仕方ないか。
だが、2日前にジャンプシートで乗ってきた管制官の話によると
管制官はそれぞれの飛行機の定刻をいちいち確認しながら管制をしているわけではない、と言っていたので、
ちょっと納得できなかった。

羽田へアプローチするとき、通常 SPENS という地点を 16,000ft で通過するように降下することが
管制によって指示される。
最初は先行機のジャンボにも、私達にもそのように指示がきた。
しばらくして、ジャンボは東京コントロールから羽田の空域を管制する羽田アプローチへの周波数の変更を要求した。
いつもなら周波数が代わっているはずの地点を通過してからも、羽田アプローチへ移管されなかったからだ。
計器上の TCAS を見ていると、ジャンボに向かって上昇していく飛行機の機影が写っていた。
私達はに SPENS を 16,000ft で降下する指示が出ていたのに、18,000ft で水平飛行するよう指示が変更された。
おかしいなぁ・・・・
TCAS上で、先行機のジャンボの機影ともう一つの機影がほとんど重なったが、2機は同じ高度にいることを示していた。
私達の飛行機の 3,400ft 下にいるのだ。
それで私達は 18,000ft で降下を止めるように指示されたんだろうか?
それにしてもあの2機、近すぎるよな。
ジャンボの隣の機影はひょっとして TCAS の誤指示かな?
管制から 16,000ft まで降下する指示が再度きてから、羽田アプローチへ周波数を切り替えるように指示された。

周波数をアプローチへ切り替えた瞬間、管制官が私達を呼び出す声が聞こえた。
(私達がアプローチの管制官を先に呼び出すのが普通)
「ANK Air 576, Turn right heading 080. Stop descend at FL150.」
(ANK576便、080の方向に右旋回して下さい。15,000ft で降下を止めて下さい。)
え?
15,000ft まで降下する指示なんてもらってないけどな?
計器を見ると TCAS 上にさっきジャンボと重なっていた機影が私達のすぐそばまで来ていた。
その高度 14,000ft。
なんじゃ、こりゃ?!
16,000ft から降下を開始したばかりだったが、15,000ft まで降りるのは危険と判断。
15,500ft で水平飛行に移り、キャプテンはオートパイロットをはずして Heading 080 の方向へ右旋回した。
と、真下を戦闘機が2機通過していった!
戦闘機は 14,000ft を水平飛行していたので、私達が 15,000ft まで降下していたとしても
何ら危険はなかったのだが、では何故管制官は私達に右に旋回する指示を同時に出したのか?
きっとあまりにも接近し過ぎていたからだろう。
通常なら接近する飛行機があれば、その情報を管制官は教えてくれるのだが、
情報を教えている余裕すらなかったに違いない。
それにしてもどうして房総半島の先端付近に戦闘機がいたのか?
先行機のジャンボは TCAS の RA が鳴り、回避操作するよう指示が出なかったのだろうか?
もし浜松で私達がジャンボの後回しにならなかったら、
私達がジャンボのいた場所を飛行していたわけで、結果的に後回しになって良かった。

着陸後、乗員室に戻ったが、自衛隊からきている乗員に聞いてみたところ
防衛大学校の卒業式の祝賀飛行ではないか?と調べてくれた。
だが通常なら 7,500〜8,500ft のはずであり、14,000ft は高度が高すぎる、とのことだった。

それとは別に羽田へアプローチ中、3,000ft を飛行していると、私達の飛行機から向かって
左斜め前方からこっちに向かって降下してくるB6がいた。
高度は 5,000ft で降下中の指示を出していた。
離陸機がそんな場所にいるはずもないし、降下するはずもない。
アプローチ機が飛行場から反対の方向に向かって降下するはずもない。
とにかく本来いるはずのない場所にいたB6がとても不思議だった。
私達の後方で一端 4,700ft まで降りた後、5,000ft まで上昇し、
水平飛行しながら画面の TCAS上から消えていった。

今日は変な飛行機が多かった一日だった。



2001.03.15

関空−仙台、関空−熊本 を往復のパターン。
ディスパッチで天気図を見ながらニンマリ。
寒冷前線が通過する前に仙台空港に到着予定だった。
私達が折り返し仙台を出発してからしばらくして前線の通過とともに風が強くなり、
仙台はアプローチが揺れる予報。
熊本は午前中は前線の影響で天気が悪く、低い雲が発生する予報。
午後になってから前線の通過とともに天気が回復し、その頃私達の便が熊本に到着予定。
上空のジェット気流は弱く、気流も良好であろうことが高層天気図から分かった。
もらったぜ。
今日は楽勝パターンだ。

仙台 → 関空 で関空へ向けて降下を開始。
丁度私達の降下経路上に寒冷前線の発達した雲が連なり、よけていては関空に近づけないほど、囲まれてしまった。
おかげで気流はボコボコ。
しかもそれが10分以上続いた。
乗客は気分悪くないかな?
とても心配だったが仕方ない。
私は、というと、雲による揺れが脳みそに心地良く、睡魔と戦うのに必死だった。

今日は楽勝のはずだったのに、当てがはずれてしまった。



2001.03.19

中標津空港に到着した便の情報によると 10,000ft 以下が揺れたとのこと。
17,000ft で千歳から向かったのだが、上空は 300°方向から 80kt 以上吹いていた。
恐らく 10,000ft 以下でも強い北西風が吹いているのだろう。
空港の北にある山のせいで、北西風が吹くと中標津は 10,000ft 以下は大きく揺れる、という法則がある。

地上の風は西からで、ILS 08 からのサークリング 26 でも良かったが、
この方法で飛行場にアプローチすると、早めに高度を降ろさなくてはならず、
山からの風が発生させる乱気流の影響をもろに受けることになるのだ。
中標津の上空が強い北西風の時は、高めに飛行場に近づき
空港の東で高度を処理する方が揺れないため、VOR 26 をすることにした。
だが、VOR 26 の計器進入方式に定められた経路を飛行するよりも、
雲から離れて飛行することが可能ならば
計器進入を止め(IFR をキャンセルし)目視で飛行経路を自分で決めながら
飛行場の南へ迂回するように降下する方法が最も北西風には有効だ。

中標津空港の西に発達しかけた雲が散在していた。
私達が中標津へ向かう数時間前まではなかった雲だ。
この雲がどこにあるか次第で計器進入をしなくてはならないか、IFR をキャンセルできるか、が決まる。
カンパニーによると雲は空港の西に位置しているというのだが、飛行機からは飛行場を覆うように見えた。
キャンセルは無理かなぁ。
少しずつ高度を下げ、雲に近づくと、グラッ、と大きく揺れた。
おいおい、この雲の中に入るのかよ。
むちゃくちゃ揺れそうじゃん。
キャプテンも同じことを考えていたようで、降下するのを途中で止めた。
この雲を越えてから高度下げようか。
とはいっても、もしどこまでも雲が続いているなら、どこかで降下しなければ、いつまでたっても着陸できない。

飛行場の手前10マイル位のところでその雲が途切れた。
一気に降下開始だ。
既に減速し終わっていたので、フラップを降ろし、ギヤをたたき降ろして、スピード・ブレーキを引っ張りながら急降下。
揺れるはずの 10,000ft を通過したが揺れない。
はて?
計器を見ると風は予想に反して弱かった。
ラッキー!

空港は私達のほぼ真下にあるが高すぎるので、高度を処理しなければ着陸できない。
1分間に降ろせる高度には限界があり、高度を処理するためには、しばらく飛行機を飛ばすしかないのだが、
私達の進行方向にはロシア領が広がっている。
このまままっすぐ飛んでロシア領に入るとミグ(ロシアの戦闘機)が飛んでくるわけね・・・
とついこの間、中標津空港に関して勉強したことが脳裏をかすめる。
すかさず降下するために必要な進出距離を暗算開始。

今、高度 7,000ft。
旋回で少なく見積もって 2,000ft は降ろせるだろ?
引いて 5,000ft。
飛行場を背にして今、飛行場から 2マイル。
速度210ktで降下率 2200ft/分 だから 6°path か。
あと 1マイル出て、3マイル戻るんだから(2+1)高度処理に合計 4マイル使えるだろ。
5,000ft ロスするのに、3°なら 15マイル必要だから 6°path なら 7.5マイル必要だ。
まだ足りないな。

今、空港から 2.5マイル・・・・・・・(以下同じ) (こんな感じで数十秒間隔で計算する。)

今、空港から 3マイル。
あと 1マイル出て、4マイル戻るんだから(3+1)合計 5マイル。
6°path なら 5マイルあれば 3,000ft は高度処理可能。
OK、そろそろ飛行場に向けて旋回しても大丈夫だな。
でも飛行場に向いてからは 6°path は無理か。
せいぜい 4°path でしか降りれないから、あと 2マイル出てから旋回すれば間に合うだろう。
これでロシア領にはみ出る可能性はないはず。

私が計算した地点にさしかかるや否や、キャプテンはすかさず空港に向けて左旋回開始。
おっしゃー。
計算は大体当たってたんだ。

雲に接近して飛行した時はドキッとするほど大きく揺れたが、
それ以降は気流の揺れもほとんどなく、中標津にスムースに着陸することが出来たのだった。



2001.03.20

低気圧の接近とともに地上天気図の等圧線の間隔が狭まり、東北地方は強風が予想された。
大館能代の地上風は 220°から 25kt 吹いていた。
着陸前に大きく揺れる風だ。

雲はほとんどないのに、濃い HAZE(もや)のせいで視界が悪く
飛行場が見えてくるまでにかなり高度を下げる必要があった。

ILS08 で滑走路に近づき、地面からの高さ300m程度で滑走路が見えた。
そこからサークリング26 で滑走路の反対側に回った。
地上300mの風は 220°から 45kt も吹いていた。
おかげで気流はガタガタ。
滑走路に正対してからは、進行方向に対して左真横から 30kt も横風が吹いていた。
コックピットの窓の正面から、かなりずれた位置に滑走路があり、
斜めに飛びながらのアプローチだった。

私の技量では絶対に無理と思われるコンディションだったが、36才のキャプテンはなんなく着陸してしまった。
彼の言葉を借りれば、「涙がチョチョ切れるような思い」 を何度もしながらうまくなるんだそうだ。



2001.03.21

関東地方から九州方面は 23,000ft 〜 35,000ft にかけて気流が悪かった。
(四国近辺はさらに下の高度まで揺れているようだったが)
石見 → 羽田 は 37,000ft を予定していたが、どの飛行機も FL370 をリクエストしていたため、
私達は 33,000ft までしか上がれなかった。
山陰はスムースだったが、関西に近づくとコトコト揺れが始まった。
再度 FL370 を要求したが、すぐ近くに 37,000ft で羽田へ向かう飛行機があったため却下された。
琵琶湖の上空に差し掛かると、とてもじゃないけど CA が後ろを立って歩けないであろうほど大きく揺れ出した。
クッソー!
仕方なく 21,000ft まで降下することにした。
途中大きく揺れる場所を通過しながら 23,000ft を過ぎるとその下は気流が良好だった。
折り返し 576便(羽田 → 石見)は 22,000ft しかないかな?
576便は私の担当だった。

羽田で一旦飛行機を降りてディスパッチへ向かった。
ディスパッチャーは 35,000ft を予定していたが、私は 22,000ft で行くことにしていた。
乗客は60名程度。
搭乗率が何%で利益が出るのかは分からないが、決して黒字とは思えない。
せめて燃料位節約したい。
30,000ft 以上の向かい風が強く、20,000ft 前半は弱ければ、上を飛んでも下を飛んでも燃費に大きな差は出ない。
朝はそうだったのだが、午後になるとジェット気流は南下したため、
高い高度も低い高度も風速に極端に大きな差はなくなっていた。
消費燃料の差をチェックすると、
FL220 で飛行する方が FL350 で飛ぶより 600ポンド(270kg)も余計に食うことが分かった。
ジェット燃料費は高いし、自然環境のことを考えても多く燃料を燃やすべきではない。
でも今日は 35,000ft も揺れが予想されていた。
39,000ft を選べば良かったかもしれない。
だが576便でそうだったように、
みんなが FL390 をリクエストすれば 39,000ft は許可されず 35,000ft しかダメかもしれない。
仮に FL390 が許可されたとしても、羽田周辺は上昇中 24,000ft 〜 28,000ft にかけて
Moderate のタービュラント(かなり大きな揺れ)がレポートされていた。
そんな空域を突っ切って上昇し、また降下する必要性があるのか?
乗客の快適性を考えると、多少燃料を食っても、確実に気流な良好なことが分かっており、
しかも離陸後、着陸まで全く揺れない高度を選んでも良いのではないか?
結局私は 22,000ft で石見へ向かうことにした。
FL220 は 35,000ft より若干向かい風が弱く、5分ほど飛行時間は短かい予定だった。

コックピットの準備が終わり、乗客が搭乗し終わって、さあ、出発、という時になって
飛行機に不具合が発生した。
コンピューターがバグったような状態であり、飛行機を運航する上で全く問題はないのだが
規定上、この状態が解消されないかぎり、何らかの処置をする必要性があり、出発できない。
サーキットブレーカーを抜いたり、コンピューターのセルフ・テストを行った結果
この軽微な不具合は自然消滅してしまった。
これで定刻を10分遅れての Push Back、エンジン・スタートになった。

滑走路へ向かったが、飛行機がなかなかさばけない。
この時間帯は通常混むことはないのだが、明日から羽田への着陸方式が変わり
平行進入(2本の滑走路に2機が同時にアプローチする)が始まるため、
その機能を確認するための航空局によるフライト・チェックが行われていた。
待つこと5分、やっと私達は離陸できた。

石見空港は地上風が 330°から 5〜6kt 程度で、使用滑走路は 29 だった。
だが 29 で着陸すると着陸後滑走路の端まで地上滑走し、
Uターンしてから滑走路上を長いこと地上滑走しなければターミナルにたどり着かない。
若干追い風ではあったが 11 で降りれば着陸してすぐターミナルに入れる。
3〜4分は短縮することが出来るのだ。
だが 11 で降りると下り坂なうえ、追い風だから着陸距離が伸びてしまう。
充分にスピードを殺して滑走路上に進入し、定点にタイヤを接地させて無事に着陸した。

到着は定刻より 2分遅れただけで済んだ。
燃料はいっぱい使ってしまったが、まあ、良しとするか。



2001.03.24

千歳 → 中標津 は私の担当だった。

YS−11に乗っていたころよく使っていた VOR/DME A という計器進入方式が中標津空港にはある。
A320 に乗るようになってから、このアプローチをめっきりしなくなった。
何故なら A320 のコンピューターのデータ・ベースに登録されていないからだ。

中標津の滑走路の方向は 08/26 だが、08 のときは ILS08、26 のときは VOR26 を行う。
この2つがデータ・ベースには登録されているので、これらをコンピューターにセットすれば、
計器画面上に描き出される計器進入の経路に沿って、オートパイロットが操縦してくれる。
だが、VOR/DME A の方はコンピューターにセットできないため、オートパイロットは全自動で操縦できないのだ。
(オートパイロットの使用は可能だが、使い方が面倒)

だが、VOR A は YS−11 の頃行っていたわけで、それなりにメリットがある。
天気が悪いときは ILS08 で早めに降下した方がいいのだが、
そんなに天気は悪くないがずっと遠くからは飛行場が見えていない場合など、
近づけば滑走路が見えることが明らかな場合、高めにアプローチした方が
250kt(ノット)以下に減速しなくてはならない 10,000ft 以下に降りるタイミングを遅らせることができる。
それだけ到着時刻を早めることができるし、かつ燃料消費量を減らすことができる。

だが、A320の乗員は誰もしないアプローチ故に、副操縦士ごときの私がやってしまっていいのか?
ずっと考えていたのだが、今日 A320 に乗り出して初めてトライしてみた。
ギリギリまで減速しないで済むように高めにもっていきアプローチしたせいか、
いつもよりかなり早く着陸できたような気がしたのだが、それは気のせいだろうか?
今後もチャンスがあれば、この方法でアプローチしてみよう。



2001.03.25

羽田 − 中標津、羽田 − 大館能代 往復のパターン。
朝一の中標津便は羽田から出発時、最近なかったのに珍しく大渋滞。
B6、B4、A300、B4、B7、B7、B6、B4 に続き9番目の出発。
滑走路の手前に到着してから離陸するまでに 15分程度かかってしまったが、
離陸前に振りかえると私達の後ろにはさらに
B7、A321、B6、A300、B7、B6、B7 と7機も待たされていた。
私達の前に B3や私達と同じ A320 クラスの小型機がいなかったので、
大型機の狭間で自分がとてもちっぽけに感じられた。

今日は房総半島の上空に積乱雲が断続的に発生していた。
地上の風が南から南西のため、使用滑走路へ着陸するためには
羽田へアプローチする飛行機は積乱雲のある房総半島に集められた。
どの飛行機も発達した雲の中に入らないように逃げまわるので、
管制官は飛行機同士の間隔を設定するのに苦労したのではなかろうか?

午後に大館能代へ向かって出発するとき、私達はアプローチ機の上を越えて行くのだが、
普段はアプローチ機がいないはずの私達の上昇経路上に、逃げまわる飛行機がいたようだった。
離陸のために滑走路に入るように管制官から指示が出て、かつ
先行機が離陸してから 2分も経てば通常は離陸の許可がでる。
その予定で客室に離陸1分前の合図を出したのだが、滑走路に入ってから
上空の飛行機がさばけるまで数分間、滑走路上で待機するよう管制官から指示が出された。
CAは既に乗客に 「離陸します」 とアナウンスを入れてしまっているので、
格好悪かったがそれをキャンセルするアナウンスを入れてもらった。

無事離陸し、大館能代へ向かった。

大館能代空港へ降下開始するべき地点にさしかかると、計器上の TCAS が
前方20マイル付近に私達より 1,000ft 下(FL220)を、こちらへ向かって飛行している飛行機がいることを示した。
J−air だ。 まずい、降りれない。
そのとき、丁度管制官から指示があった。
「Descend and maintain 9,000ft........」(9,000ft へ降下してください。)
キャプテンはすかさずパワーを絞って降下を開始した。 と同時に
「Disregard. Maintain flight level 230.」(さっきの指示は取りやめます。 FL230 を維持してください。)
ナヌー?!
降下を止め、いったん水平飛行して、すぐ FL230 へ上昇した。
そうなのだ、前方からこちらへ向かって 1,000ft 下を飛んでいる飛行機が 20マイル近辺にいるとき、
私達に降下の指示は普通こない。
だが、こっちは既に降下を開始すべき地点を通過しており、一刻も早く降りたかったので、
ひょっとして管制官は J−air に対して、
私達の降下経路に重ならないように針路を変えるよう指示を出すのでは、と考えていたが甘かった。
やはり単に管制官が私達の下に飛行機がいることを忘れていただけだった。

大館能代空港からは伊丹空港行きの飛行機(540便)が上がってくるのだが、
私達が早く降下し、彼らが早めに上昇すれば、お互いに邪魔をしないで済む。
我々はそれを予期していたので、どうしても降下を開始したかったのだ。

やっと下の飛行機が通過し、私達に降下の指示が出た。
既に通常の操作では大館能代へ着陸するには高すぎる場所にいた。
それまでに速度を落としておいたので、
位置エネルギーを運動エネルギーに変えるように加速しながら一気に降下した。
ついでにオートパイロットを切り、スピードブレーキを引いた。
スピードブレーキの効果はオートパイロットを使用している場合と使用していない場合とでは
その効き具合に倍の差があるからだ。
こうして落下するように降下して、上昇してくる 540便の手前をさらに降下するはずだったが、ちょっと遅かった。
私達は 9,000ft までしか降りれず、540便には 8,000ft までの上昇の許可が出された。
また、2機の間隔が 20マイル程度になってしまったのだ。
こうなるとすれ違うまで私達は高度を降ろせないし、彼らも上昇できない。
大館能代空港に対して私達はどんどん高くなっていった。
再び速度を落として一気に高度を下げる準備を整えた。

540便とすれ違うと同時に急降下して、我々はなんとか大館能代空港に着陸することができた。

今日の大館能代空港の管通官は、以前ジャンプシートに乗せてあげたことがあった女性だった。
あたふたしながらのアプローチだったが、彼女の声を聞き、ちょっとホッとした。


今日は東京は朝から雨が降っており、屋外ではほとんどスギ花粉を感じなかったが、
機内に溜まっていたようで午前中はずっとコックピット内で鼻をかみ続けた。
北海道にはスギ花粉がないので、中標津で外に出たときは調子よかったが、コックピットに戻ると再び鼻がズルズル。
私はこの時期になると鼻の穴の内側によくニキビ(デキモノ?)ができるのだが、
今シーズンの2つ目が右側にできてしまいとても痛い。
苦痛だ・・・・・
大館能代から羽田へ戻るころになると機内の花粉もなくなったようで、かなり調子は良くなった。
あー、明日も雨が降らないなかぁ・・・・・・



2001.03.26

昨日、大館能代空港での出来事。

大館能代空港に到着して乗客が降りるのを待つ間、
コックピットから見える空港のフェンスに、親子がいた。 飛行機を見に来ていたようだった。
男の子であることが分かった。 お母さんがしきりに子供に声をかけながら飛行機を指差している。
「ほら、飛行機だよ。 分かる?」 と話しかけているように見えた。
ご両親がこっちを見ているときに、私はコックピットから手を振ってみた。
彼らはそれに気が付いたようで、子供の手をとり、手を振り返してきた。
乗客が降り終わるまでは比較的暇な時間なので、喜んでくれるのであれば何度でも手を振ることにしている。

飛行機を降りてディスパッチへ向かった。
さっきの親子がいるフェンスのすぐ近くを通らなくてはディスパッチに行けない。
キャプテンと二人で親子の方へ向かって歩いていくと、ご両親は先ほどまでの笑顔とは裏腹に
なんとなく私から目を背け、そっぽを向くような仕草をした。
そうなのだ。
相手が見知らぬ人でも、遠くからなら手を振ったり笑顔を見せることができるのだが、
近くにその見知らぬ人が来ると、何か気まずくてどうして良いか分からず、とりあえず目をそらそうとしてしまう。
もしこれが外国人だったら、気軽に 「Hi!」 の一言でも声をかけて、何の違和感もなく会釈できる。
私もご両親のその気まずさが分かるから、目をそらして、キャプテンと話をしながら
さっきコックピットから笑顔で手を振った彼らがそこに居ることに気づかない振りをして通過しようか、
一瞬迷ってしまった。
そうするべきだったかもしれなかったが、恥はかき捨てだ。
無視されてもいい、そっぽを向かれてもいい、そう思い、笑顔で 「こんにちは!」 と会釈してみた。
ご両親は驚いた様子だったが、すぐ 「こんにちは」 とコックピットから見たのと同じ笑顔を見せてくれた。
ディスパッチでの用事を済ませ飛行機に向かうとき、同じ場所に彼らが居るかな?と振りかえると
そこに居たので、もう一度笑顔で会釈してから私は外部点検に向かった。
周りにも沢山飛行機を見に来た人達がいたし、もし親子に無視されたらどうしよう、恥ずかしいな、
そう思って一瞬ためらってしまったが、やっぱり挨拶をして良かったと思う。
見知らぬ土地の見知らぬ人との小さな触れ合いを大切にしたい。
そう思う。